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イエスはキリスト教の創設者ではない そしてキリスト教は イエスの教えを伝え その活動を継ぐものではない イエスはユダヤ人のユダヤ教徒であり 当時のユダヤ社会が抱える問題に対峙した一人の人間である イエスが伝承通りに大工という職業であったのなら テント職人だったパウロと同様に 当時は知識階級に属したのである イエスはユダヤ教のラビとして生き ラビとして死んだ イエスの活動は ヨハネの洗礼に始まったとしても 結果的にセクト運動とソレを支えたセクト的価値観に対抗するものだった 洗礼のヨハネ派にイエスは属さなかった 終生イエスは反セクト主義者だったのだろう 当時のセクトといえば 有名どころで ファリサイ派 サドカイ派 エッセネ派 ゼロテ派(熱心党) しかし イエスの死後 弟子達は イエスがキリストであるという神話を捏造し「キリスト派」というユダヤ教の新たなセクトを立ち上げた その後の歴史的な展開の中で彼等はユダヤ教から分離し キリスト教が誕生した キリスト教とは イエスがキリストである という(イエス個人とは無関係な)全く新しい事柄を伝える宗教である イエス・キリスト(イエスがキリスト=メシアである)という言葉はつまり 彼等の信仰告白なのだ アタシはこの本の著者上村静さんの『宗教の倒錯』(岩波書店)を2012年の1月に読んだが ハッキリ言って専門的過ぎた(笑) 一方 この『旧約聖書と新約聖書』は 全くキリスト教のコトを知らなくても読める様に書かれている さて内容 前半は 旧約聖書 第一章は ユダヤ教の成立とモーセ5書編纂を歴史を追って解説してある ユダヤ教入門としてもひじょうに分かり易い そもそも旧約聖書をいきなり読んでも意味が分からない(笑) 第二章 アレキサンダー大王以降 急速にヘレニズム(ギリシャ化)の浸透が進むパレスチナでユダヤ教の変化 ヘレニズムに対抗するユダイズムとユダヤ民族主義 復活信仰の誕生 ローマ帝国の支配と神の支配(神の国の到来) 第三章 キリスト教の成立と新約聖書 イエスの死とエルサレムに誕生した原始キリスト派 その後に「キリスト教」誕生の基礎になるパウロの神学 信仰義認 十字架の神学 救済史観 使徒行伝とパウロ書簡 ヨハネ文書 ヨハネ黙示録とグノーシス この三章が この本のメインだ というか めっさ面白い 福音書について 福新書の著者達は イエスに会ったコトも無ければ 史実に忠実なイエスの伝記を書こうとしたものでもない 彼等は いかなる意味で「イエスがキリストであるか」を証しするために 諸資料に基づいてそれぞれの福音書を書き上げたのである 書かれた順に マルコ マタイ ルカの各福音書が分析される 例えば イエスは処女マリアが聖霊によって身ごもったとされるのだが 何故か 血のつながりがないはずの父ヨゼフについて 彼ががダビデの子孫であることが縷々述べられる(マタイ) これは ユダヤ教には元々処女から神の子が生まれるという考えが存在しなかったのに対し キリスト教の中心となり福音書を作りだしたヘレニズム世界では ギリシャ神話が典型で有るように 神と交わった人間の女が神の子を産むのがふつーなのである つまりイエスが生物学的に神の子であるという話を作るために 処女降誕物語が作られた結果である この様に 福音書は事後的に(最も早いマルコでもイエスが処刑されてから30-40年後に) イエス・キリスト神話を宣教するために 自分たちに都合の良い様に書かれている 正典 儀典などの取捨選択も その時の権力宗団が自分たちに都合の良いものを選んだ結果なのだ キリスト教としての神学の大半を準備したのは 元ファリサイ派で キリスト派に「回心」したヘレニストのパウロである パウロは死ぬまでユダヤ教徒だったのだが そのパウロの神学が 歴史を追って分析される パウロは自我の死を恐れた 生命の永続という究極のエゴイズムがその根底にある 本来 イエスは黙示思想を批判し 神議論(正しい人=義人に報い罪人を罰する神)を否定するところに その信仰をおいた 旧約聖書のコヘレトに書かれたニヒリズムにごく近いところにイエスの思想は成立するのだ しかし パウロは義人になること(イエスをキリストと認め信仰すること)を救済の条件にしてしまうのである 神の赦しを伝えるはずの福音が 神の名の下に自他を抑圧する暴力となる 永遠の生命の獲得=キリスト教の救済論に内在する暴力性(エゴイズム)の顕在化 パウロの「信仰義認」が取り上げられる 人は律法の業によって義とされず イエス・キリストの信 によってのみ[義とされる]ことを知って わたしたちもまたイエス・キリストを信じたのである --ガラテア書 この イエス・キリストの信 とは 死にいたるまでイエスが示した神への信実である つまり人間イエス・キリストに対する信仰では無く キリストが神に与えられた使命に誠実・忠実であった「信」によって 人間が「義」とされるのである これはエゴイズム=自力本願から 他力本願への転換なのだ しかし パウロは 再び義人と罪人の二元論に戻っていってしまう さらにパウロは 磔刑というイエスの死に方 に拘る いわゆる十字架の神学だ 人間的価値基準では愚かに見える十字架を 逆説的に「神の知恵」として 神の救済行動として提示する 自分もイエスと共に磔にされるというパウロの言葉がそれを示す パウロの苦難は自分の「弱さ」故であるとし 十字架にかけられたイエスの弱さでもあり この「弱さ」を通して働く「神の力」が 十字架の神学の要諦である この後 第一次ユダヤ戦争とその敗北によるエルサレム神殿の破壊 「ユダヤ金庫」(ローマ皇帝によるユダヤ人人頭税=払えばユダヤ教信仰が許される)と キリスト派のユダヤ教からの離脱 そしてこの頃に書かれたヨハネ文書が このユダヤ教からの離脱を推し進める内容であることが指摘される グノーシスに関するコラムがあり ヨハネ文書の著者(ヨハネ教団)とは異なる著者ヨハネによる黙示録だ 当時のキリスト教は ユダヤ教に与えられた特権(税を払うことで町の祭儀への不参加が認められた)がなく 怪しいカルト宗団と見なされていた そういった民衆の反感に対し信仰を守ることを力づけるために書かれた黙示(最後に良いことがある)というワケだ 終章で キリスト教の反ユダヤ主義 と 聖書という「文字で書かれた聖なる存在」を巡る考察で締めくくられる 人間存在について語るために人間によって創り出された「神」という観念を実体化した上でなされる神学議論は、もはや無意味であるだけでなく有害である。「神」は「言葉」にすぎない。 本書 p.353 とにかく 専門用語は丁寧に解説されているし よくここまでコンパクトに分かり易くまとめたモノだと感動モンだね そして 巻末には丁寧な参考文献リストがある 上村さん一流の選択によるものなので もちろん信用できる 同じ著者による次の2冊もオススメ ・イエス ー人と神とー fad叢書 2005 ・キリスト教信仰の成立 ーユダヤ教からの分離とその諸問題ー fad叢書 2007 fad叢書は一般書店に流通していないので下記を参照してちょんまげ fad叢書
by duchampped
| 2013-07-31 10:24
| 逍遙的読書
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