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政治学者原武史さんが自分自身の小学生時代を思い起こし、インタビューし、記憶の隙間を調べあげた結果をドキュメンタリーにまとめた作品。 個人的な話。アタシは小学生時代に担任教師に嫌われた。7歳のアタシは「美しくないもの」に冷淡だったのだ。それが理由か否か定かではないが、とにかく醜い老嬢の担任教師は、2年間アタシを徹底的にイジメぬいた。担任教師は「この子と遊んじゃいけません」と同級生に命令した。 そして、2年間、誰もアタシに近づかず、口もきかなかった。 これが一体どーいう事態か、想像できますか? 小学3〜4年生の間、遠足だけではなく、運動会も、何もかも、7〜8歳のアタシは、たった独りで弁当を食べ続けた。 その屈辱と寂寥が想像できますか? 結果的に、孤独はアタシを、幼いが頑なな個人主義者にした。正確に言えば「人間が心底キライ」になった。(笑) この本には、アタシの様に集団主義を忌避するスタンスがあって、アタシは原さんの感情に好意を持ってしまう。つまり以下のレビューにはそーいう偏りがある。 原さんは、まず戦後の住宅不足、住宅公団の設立、西武線沿線のマンモス団地の誕生、それに伴う小学校の新設、戦後民主主義の若い時代、を背景にしたPTAの改革などを前史として記述する。 アタシ自身も2歳から、1958年に完成したばかりの公団阿佐ヶ谷団地に住んだ。青梅街道を走っていた都電が廃止され、トロリーバスは短期間しか走らなかった。営団地下鉄丸ノ内線が開通した。 そしてアタシは、1963年、世田谷の新興住宅地に転居した。世田谷の北西の端には当時は畑が多く残っていた。小学校では地元の子供が幅をきかせていた。 しかし、1964年東京オリンピック開催で大きく時代が変わる。テレビ放送がカラーになり、近所の古い木造共同便所風呂なし共同住宅は鉄筋の四角い箱に建て替えられた。 大きな沼は埋め立てられ、その上を中央高速道路が通った。 古い商店街に替わりスーパーマーケットが買い物の中心になっていく。 小学6年生の秋に大怪我をしてアタシは入院生活を体験した。そして初めて納豆を食べた。中学は越境して杉並の区立中学に通った。 安保闘争があった。安田講堂攻防戦をテレビ中継で観た。杉並区の中学2年生は夏休み「富士学園」という名の合宿に行った。原武史氏が小6で行った蓼科の修学旅行が東久留米市の施設だった様に、杉並区の施設に泊まった。 そこで教師と生徒は深更までアポロ11号の月着陸に見入ったのである。そして1970年アタシは大坂万博で月の石を観た。 1971年4月、大学を卒業したばかりの片山勝氏が新任教師として東久留米市立第七小学校に赴任したところから物語は始まる。ここから小学生自身の手による民主的な学校運営への道程が描かれるのである。著者は小学3年生。 1972年片山先生が担任する4年5組が台頭する、著者はクラスがちがったのだが。新しい算数の学習法や全生研(全国生活指導研究協議会 日教組から派生した民間教育研究団体)の指導に基づく「学級集団作り」が行われたのだ。 この年は札幌冬季オリンピックではじまり、連合赤軍あさま山荘事件テレビ中継があり、川端康成が自殺した。ウォーターゲート事件が話題になり、ミュンヘン・オリンピックで麦酒のコマーシャルが大量に流れた。吉田拓郎の「旅の宿」「結婚しようよ」が流行りフォーク・ブームになった。退屈な歌謡曲は退潮し始めた、しかし、ちあきなおみの「喝采」がレコード大賞をとってこの年は暮れた。 1973年4月、七小の児童数は1369人、33クラス。著者の住む滝川団地の人口はピークだった。校長が交代し、PTAと先生たちによる民主化推進の追い風となった。 児童による委員会活動が活発に行われた。著者は進学教室「四谷大塚」の会員としてJR武蔵小金井から四谷に通い始めた。後年村上春樹が武蔵小金井の野川公園をゴルフ場に見立てて「1973年のピンボール」を書くが、この時彼は国立でジャズバーを始めたばかりだった。(公園になる前は実際にI.C.U.のゴルフ場だったらしい) 春先の名物と化していた国鉄の遵法闘争でキレたサラリーマンが暴徒と化し新宿や上野が騒乱状態になった。 コカコーラからHI-Cが発売された。まだ果汁100%のジュースはポンジュースくらいしかなかったのだ。日本赤軍がハイジャック事件を起こし、金大中事件が起こり、キッシンジャーが国務長官になった。秋にはオイルショックでトイレットペーパーが人気物になり、一方ではコインロッカーに捨てられる乳児が大量に発生した。 村上龍が7年後に「コインロッカー・ベイビーズ」を書くことになる。渋谷にパルコがオープンした。 1974年4月、七小の児童数は1524人38クラス。東久留米市立第七小学校の児童数がピークを迎えた。片山先生は3年続けて同じクラスを担任。この6年5組が代表児童委員会の構成メンバーである各種委員会の委員長を独占した。 著者はこの時点で権力闘争の匂いを嗅ぎつけて不快を感じたようだ。 実際にそこには全生研の思想を具体的に押し進める担任教師片山先生の力が大きく働いていた。集団主義という名の新たな権力装置が作られていたのである。 これはつまり、小学生が大人の政治を理想化して演じてみせることに対し、ある種の大人たちが党派的自己満足を得ていたという話に過ぎない。 どこの世界にも素朴な交通標語的正義を振り回す人々がいるものなのだ。 言い換えあれば、例の「低開発国の子供達の眼はキラキラ輝いていた」という紋切り型を何も考えずに使って平気な人々である。あるいは教条的な正義を振り回す朝日歌壇に短歌をならべる鈍感な人たち。 印象的なエピソードが記されている。 病欠の担任に代わって五組の片山先生が著者のクラスで社会科の授業を行った。片山先生はまだ習っていない織田信長について何か述べてみろと挙手させる。原少年は塾で習った信長の事蹟を述べたのだが、それは教科書に書いてあることに過ぎずつまらない、と退けられた。 そして生徒委員会で片山先生の薫陶を受けた生徒が「自分の意見を発表」し賞賛される。しかし著者は「まず基本的な事実を知らなければ、きちんとした評価はできないではないか」と強く思う。 この思いは三十年たった著者の研究にほぼそっくり反映されているという。 本書 p.214 そして「滝山コミューン」の完成するのが6年生の修学旅行だ。予想通りの「生徒による自主的な集団主義」による統制が横行する。 ここで印象的なのはクラス担任に原武史氏が林間学校の集団主義統制に違和を訴えたことと、その夜戦前の国家総動員法時代に小学生だったそのクラス担任が戦前の集団主義統制の危険さを述べて全生研思想に忠実な団塊世代の片山先生と深更まで激しく議論をしたことだ。 しかしその議論は修学旅行の統制に些かも反映されない。そして「滝山コミューン」のハイライトであるキャンドル・ナイト。この顛末は著者の原武史氏と同様にアタシの様な反集団主義者には忌まわしいだけである。 その結果、著者はとうとう代表児童委員会に呼び出され「自己批判」を強要される。 多くの生徒が知らぬ間に運動会などの運営で6年5組が主導して行事が既定事実の様に進められることに対して、原少年が疑問を投げたことが原因だった。 しかし、何よりも驚くことはこれが1972年連合赤軍の山岳ベースで12人もの仲間を自己批判させ総括した上で虐殺した事件の発覚後に行われた、ということだ。当時「自己批判」や「総括」という「用語」は悪ふざけでしか使われなくなっていたはずなのだ。 まだ国家権力と対峙する正義がシンプルに信奉されていた時代だったのだろう。 同時代に18歳だったアタシには信じられないが、退屈な正義が素朴に称揚されたのである。世上では既に三無主義(無気力・無関心・無責任)が一部の若者を揶揄する言葉として流行していたにも関わらず。 当時、アタシの周囲にもまだ学生運動の残滓を振り回す人たちがいたが、既に多くの学生たちはシニカルな微笑を浮かべ彼等を黙殺していた。 とにかく著者原氏の通った小学校では卒業式に国歌も国旗もなかったという。 経済は無限に右肩上がりであり、努力と才能はいつか報われると誰もが素朴に信じることが可能だった。だが決して牧歌的な時代ではなかったのだ。 1972年の連合赤軍事件で表向き政治の季節は終焉を迎えたのだが、地下に潜った新左翼勢力は大衆と離反した内ゲバに耽り、消費社会に浮かれ始めた大衆は分不相応な奢侈に耽ったのである。大衆は「隣の芝生が小さく見えること」を良しとしたのだ。その背後には広告費の増大がある。 おそらくこの年広告費は年間1兆円を超えた。テレビ・コマーシャルが洗練を競うようになっていった。 モーレツからビューティフルに。 消費を「生きることそのもの」として大衆は小衆に擬態し「美意識による差別化」へと舵を切ったのである。(渋谷パルコにイッセイ・ミヤケのブティックがオープンした。街場にできはじめたジーンズ・ショップではリーバイスが5、000円の時代だったがイッセイ・ミヤケのブティックではペラペラのコットンの上下が40,000円以上していた) 著者は慶應義塾普通部に合格し七小を卒業する。そして彼らの学年が卒業すると同時に「滝山コミューン」は崩壊した。 最後にこの特殊な「コミューン」が偶々場所と時代を得て僥倖の様に成立したものではなかったのか、という著者の言葉が記される。 過ぎ去ったものは全て美しい記憶になるからだ。
by duchampped
| 2013-10-14 15:18
| 逍遙的読書
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