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![]() 先回レビューした『 歴史の中の『新約聖書』』(ちくま新書2010/09)の方がこの著作(2006/11)よりも後に書かれているのです しかし 内容的には 先に『 歴史の中の『新約聖書』』を読んでいた方が分かりやすいかもしれません 書かれた順番で マルコ・マタイ・ルカの共観福音書でイエスが43の「たとえ話」をするのですが 著者は日本語の「たとえ=比喩・隠喩・直喩」と「たとえ話」を分けて考察します 後者は「パラボレーであるたとえ話」とされ その特徴は以下の3点 ○ 時間の流れがある=物語になっている ○ 語られた状況・文脈と無関係な話 ○ 物語の異常性・非日常性 パラボレー/parabole ギリシャ語で たとえという意味 その「パラボレーであるたとえ話」における異同と文脈 そして 語る主体(イエスor神)と聴衆(ファリサイ派 or 弟子たち or 不特定の聴衆)の関係を丁寧に分析することで マルコ = 精霊を受けたイエスのみが神との直接的な関係を取り持つ マタイ = イエスの新しい掟が律法に代替する神へと繋がる方法 ルカ = 精霊がイエスの弟子たちにも降り注ぐ(ペンテコステ)に繋がる という暫定的な結論が導出される 対して 全く「パラボレーであるたとえ話」の登場しないのがヨハネ福音書である ヨハネ = イエスそのものが隠喩表現される 例えば典型的なのは 私(イエス)は道である という表現 つまり この道は神にいたる道である 言いかえれば 妄信的にイエスをキリストとして崇め奉る党派には好ましい表現である と著者はあとがきに述べている(笑) しかし 共観福音書では イエスなしでも神と結びつくとも述べられているのである いずれにしても 著者が真摯に神との結びつきを新約聖書の中に見出そうとする努力に対して アタシは敬服します(神が何であるかを別にして) それから すごーく興味深かったのは マルコ(4-12)の翻訳(というか著者的には 意図的な誤訳) アタシの手元にある日本聖書協会発行の聖書(和英対照 和文=新共同訳 英文=Today’s English Version ISBN4-8202-1271-9)では以下である それらは 『彼らが見るには見るが、認めず、 聞くには聞くが、理解できず、 こうして、立ち帰って赦されることがない』 ようになるためである。 so that, “They may look and look, yet not see they may listen and listen, yet not understand. For if thei did, they would turn to God, ahd he would forgive them.” 既に英訳は 神は彼らを赦す と訳しているのであるが ほぼ同じイザヤ書6章からの引用が使徒言行録28章-28にもある(同じ手元の聖書から写す) こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、 心で理解せず、立ち帰らない。 わたしは彼らを癒さない。』 だから、このことを知っていただきたい。 この神の救いは異邦人に向けられました。 Otherwise,their eyes would see, theie ears would hear, their minds would understand, and they would tern to me,says God. and I would heal them. And Paul concluded: You are to know, then, that God’s message of salvation has been sent to the Gentiles. こちらも同様に 英訳では 「神による救済の言葉が異邦人たちに与えらる」とパウロが結論づけた のであるから 私(神)は彼らを癒すだろう と述べられている しかし 何故か 和文=新共同訳はどちらも否定になっている 著者は元のギリシャ語からして肯定文なので この翻訳は奇妙だと言っているのである すごーく不思議な現象だ 日本語で聖書を読んだ場合 意味が反転しちゃう ってこと??? 誰か ご教示ください
by duchampped
| 2012-11-12 11:00
| 逍遙的読書
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