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![]() この対談集は「私は運が良かった」で始まり「私はとても幸せです」というデュシャンのコトバで終わる 1966年 デュシャンの死の約3年前 パリ郊外ヌーイにあったデュシャンのアトリエでの対談(と言うよりはインタビュー)は とてもリラックスした内容であり 珍しくデュシャンも比較的素直に語っている様だ(笑) もちろん‘いつもの韜晦やら冗談’が頻出する 元々は1978年に朝日出版から‘エピステーメー叢書’として発行された「デュシャンの世界」が文庫化されたものだ まず ダダイズムまでの簡略な美術史的レジュメ たぶん これがないとデュシャン理解は無理(笑) ・15世紀 ルネサンスで芸術家の「個としての表現能力」がフューチャーされた しかしそれはあくまで「神に仕える為の技術」 彼らは職人なのだ ・18世紀 「個人」が重要な価値となる 「芸術」は神の支配から逃れ「個人」の価値に奉仕する 芸術は「嗜好品」になったのである ・19世紀 写真術発明 「美術」は「見えるままを描き写す」という使命を失う だから 印象派の画家たちは「世界がどのように見えるか」を主題にした 後期印象派は「世界をどのように見るか=表出するか」を主題にした つまり「芸術家の内面の表出」に芸術の価値が移行する 近代美術史のパラダイムはこの価値観から抜け出ていない ・20世紀 精神分析の影響などで「世界=解釈」と芸術家の内面の相剋は 「世界という文脈=システムの否定」に逢着する つまり ダダイズムという「反芸術」の開始である 現代の芸術は「網膜的な=ミニマル・アート と 「思索的な=ダダ以降の表現行為」 に大別される ヒロなんちゃらとかマンガ・キャラを描いた「モグラのクソの様なもの」は除外したい あれは単に壁紙だから(笑) デュシャンは そもそも 20世紀の初頭 後期印象派をさらに 「純粋化」する「抽象表現主義」的な画家として成功した 「階段を降りる裸婦」という絵画作品である しかし この作品 実際はマリネッティなどのイタリア未来派と極めて近い思想で描かれた【網膜的絵画】にすぎない 移動・速度などのキーワードで読み解かれる単純な絵画群である さて 絵画から【描写=主題/テーマ】が失われてゆくのは 芸術家の【内面】を表出することが【純粋】に追求されていくからであった 宗教画が中心であった西洋絵画は肖像画や風景画などを含めて【ある情景】であって職人である【芸術家】の内面などとは無関係だった 剰りに単純化しちゃうと「エロに蒸すボス」など 扱いに困るが(笑)細かく言い出すとキリがないのでおおzappaに進める(笑) ところが 簡単に言うとフランス革命・百科全書・市民社会・などによって突然【個人】というモノが注目されちゃったんだよ それまでの長い年月 あなたとワタシの【差異】は無く めっちゃ絶対的な【神の正義の下】での反復だけが人生だったわけだ(仏教は、この反復を忌避して輪廻転生からの解脱を理想した) こーして【個人】が成立してしまうことによって【あなたとワタシの差異】がとても重要な主題になってしまう(笑) ココに市場主義・資本主義の萌芽 価値規範があるわけで アタイがひつこく18世紀フランスに拘る理由は実はこの周辺にある(笑) それで【あなたとワタシの差異】をある種の価値として流通させてしまうのが【芸術という市場】になっていく ほんで19世紀に産業革命やらラッダイトやらウィリアム・モリスやらがわらわらと興って世紀末にはラスキンだのホイッスラーだのががやがややって 結果的に印象派が評価される地盤はあくまで【芸術家という特殊な個人の世界の見方・感じ方・表し方】だった 何故ゴッホが日本の錦絵に惹かれたか? それは描写の方法と同時に【そーいう世界の見え方】そのものに惹かれたのだろ ゴーギャンがタヒチにまでボラボラしに行ったのは【プリミティブな世界の解釈】を自分も共有してみたかったからなのさ 一方で【世界の捉え方】と同時進行的に【世界の再現/representationの方法】も芸術市場での価値になっていく スーラやシニャックの「点描」や モネの眠たげな睡蓮が色を解け合わせる様になっていった ま こーいった「手法」自体は「職人技」としてレオナルドの「スフマート」みたいなモノが昔からあったんだけど 分かり易く言うと【手法自体を目的化=純粋化】するコトが【近代の病理】ってーやつだ 【誰かと違う見え方感じ方の表出=価値】が表現全般にもたらした病理は「常に新しい オリジナルにしか価値がないという病気」であったワケ 一方で19世紀にヘゲモニーを握った近代科学思想 「常に正しい解に接近していくリニアなプロセス=人類の進歩」という価値意識も基本的には同じ心性の上に成り立つ しかし「美を消費する態度」が進歩するワケがないから 新しさはある種重要だけども 実際は「反復の上での洗練」に過ぎない ソレを価値に換えるシステムを高度資本主義と称する(笑) デュシャンの「階段を下りる裸婦」という作品は こーいった文脈上の「正当な進化」だった 彼はやがて【網膜的絵画】に決別してレディメイド(つまりマスプロダクトを【芸術の文脈】に再配置する行為)や ガラスを利用した絵画「大ガラス/彼女の独身者達によって裸にされた花嫁、さえも」などを作り出す 前者は、「泉」という作品(ただの男性用小便器)になり そのまま「ダダイズム」の基本文脈になっていくし 後者は、キネティック・アートの文脈に受け継がれて やがてはジャン・ティンゲリーの「自滅する彫刻」やロバート・ラウシェンバーグの「コンバイン・ペインティング」などの作品を「芸術というマーケット」に生み出す 【意味との決別】は ジャスパー・ジョーンズのアメリカ国旗や それこそ ウォーホールのシルクスクリーン作品に受け継がれていく 無意味は 実に軽やかで 美しいからね(笑) ところが デュシャンは 突然 こーした一連の活動を停止してしまう 大声で「やーめた」と言ったわけでは無くひっそりと‘止めて‘しまったんで これが また大センセーションだよ そのせーで【行為というアート】が誕生してしまう 後衛たちといえばイブ・クラインみたいにビルの窓から跳んじゃうよーな「おっちょこちょい」(でもインターナショナル・クライン・ブルーは好きな色だ)や でかい布でそこら中を‘パッケージング’してまわる奴 月の裏側に人工芝を敷きまくる奴など 枚挙に暇ない さて 「この絵(作品)は何が描いてあるの(何を表しているの 意味しているの)?」 現代美術作品の前でしばしば人はこの様な問いを発する が おわかりのよーにソレハ ダダ以前の絵画鑑賞のスタイルだ せいぜい【どの様に見えるか】を表現主題にしてきた印象派あたりまでの絵画鑑賞態度なのだな(ラファエル前派という人たちが例外的に【素朴】な絵画を目指したけど) 【吾輩が世界をどー思ってるか】が主題の作品には 描写の対象が必要ない=欠落している つまり マルセル・デュシャン以前/以後である という分け方が便宜的に可能な位 デュシャンは後進の作家たちに影響を与えてしまったワケで「デュシャンの最高の作品は彼の生涯である」と言われるのも分かる 抽象表現主義の旗手として登場し ダダイズムの巨匠となったデュシャンは 突然「芸術家」をやめて図書館のパートタイムの司書になり余暇にチェスをするだけの生活を始めた そして彼の死後 “遺作”が公表されて 大問題(笑) やれやれ 実際に「遺作」をアタシはフィラデルフィア美術館で視たが おそらくソコにおかれているモノは【意味を求めるという鑑賞態度】を嘲笑するためにデュシャンが残した最後の「悪意/装置」(イタチの最後屁!)だ(笑) デュシャンが繰り返し【表現】したのは この様な【意味という病=芸術市場の再生産を可能にする価値神話=鑑賞態度】の終焉 だったのだから この 対談集にも出てくるが デュシャンは大金を積まれても作品制作を断っている デュシャンは言った 「芸術を発明したのは人間です。人間がいなければ芸術もないでしょう。人間が発明したものはすべて価値などありません。芸術は生物学的な根拠を持っているわけではなく、それはただ趣味に対してあるだけです。」p.212 デュシャンのコトバは「反芸術=芸術ではないことの可能性」を体現した「まったく驚くべき一生」を垣間見させてくれる 付記 デュシャンに関する本は無闇にイッパイあるが 個人的には 未知谷から1995年に刊行された『 マルセル・デュシャン全著作』の訳者による「あとがき」が とてもまとまった「非美術史側」からのデュシャン入門として秀逸だと思う 訳者である北山研二さんはレイモン・ルーセルの研究者
by duchampped
| 2013-04-11 14:46
| 逍遙的読書
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