カテゴリ
以前の記事
2021年 01月 2020年 05月 2017年 04月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 10月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 04月 2012年 01月 2011年 12月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 04月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 11月 2008年 08月 2008年 04月 2008年 03月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 04月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 フォロー中のブログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
著者はカトリックの洗礼を受けた後、牧師(言うまでもなくプロテスタント)の資格を取ったという経歴の持ち主。専門はギリシャ教父思想。 この本はキリスト教徒である著者が「キリスト教と無縁の日本人」を読者に想定して書いたもの。むしろ御本人は「ふつうの日本人の視線でキリスト教を考える」を課題に書いたと述べている。 第一章 平和を説くキリスト教が、なぜ戦争を引き起こすのか 旧約聖書の神は先住民の殲滅を指示したりする好戦的な神だが、著者は「キリストは戦争を肯定していない」という。しかしキリスト教会・法皇は十字軍を起こした。さらにキリスト教徒は歴史を通じてユダヤ教徒を迫害。また南アメリカでは凄まじい数のインディオを虐殺し、「魔女狩り」や「異端審判」で残虐な拷問、刑罰を実行してきたのであった。著者は「キリスト教」がこれらのことを行ったのではなく、ある特定の「キリスト教徒」が起こしたことだと主張する。例えば十字軍について 「それは「キリスト教」が起こしたものではないと思うのです。なぜならイエスの教えとしてのキリスト教は、そもそも異教を撲滅するようなことを宣べていなかったからです。十字軍は中世ヨーロッパの一時期に生じた現象でした。「キリスト教」の姿をとってはいますが、その基礎となっているのは、ある種の社会的エネルギーなのです。〈中略〉キリスト教とキリスト教徒は必ずしも連続していないと考えてください。一つの時代が宗教的熱狂のうちに間違いを犯すこともあります。〈中略〉キリスト教を信じる人々を除外して、「キリスト教」というものがあるのかと問われれば、あり得ないと言わざるをえません。〈しかしキリスト教には聖書があり、イエスの教えがあると述べた後〉また多くの人が間違っているとしても、すべての人が間違っているうわけではありません。少数ではあっても、たとえ一人であっても、イエスの教えを継承する人はいつの時代でもどこかに必ずいるはずです。」 本書 p.35-36 これはどう考えても詭弁としか思えない。キリスト教徒に何故「間違った多くの人」が発生し、かくも残虐な拷問や刑罰あるいは戦争を繰り返してきたのか、が問題なのである。 「十字軍のようなことは中世ヨーロッパのキリスト教のことであって、それ以前ではありません。しかもそれはキリスト教が国家と結びつき、それを支え、自らの政治権力を最大限に獲得し、展開した時代であったと言えます。政治と結びつき、権力と結びついたある時代にキリスト教は、伝道の名の下に戦争と関係したのだと思います。」 同 p.41 著者はその権力志向がローマ帝国時代からの歴史に原因があると言う。十字軍や戦争を引き起こしたのはキリスト教ではなく「社会をまとめる力」というものがその原理から外れるものを排除しようとしたことが原因であって、それはキリスト教と無関係だと述べる。 要するに著者は過去に残虐な行為を行ったのはキリスト教徒であってもそれを駆動したのはキリスト教ではなかった、別の力であった、と主張するのである。 第二章 キリスト教の説く「愛」とは何か よきサマリア人の喩えが取り上げられる。著者はここに働いている力こそがキリスト教のコアである「隣人愛」だと言う。瀕死のユダヤ人を避ける行為は律法の不浄規定に従ったものであって祭司とレビ人(こちらもまた祭司階級だ)は当時の常識では正しいのである。 余談だが、今なおエルサレム市内には将来の神殿復活を考慮して祭司の血縁に繋がる人々(レビ族に繋がる特定の苗字の人々)に向けて墓地や葬式など不浄の場所を避けるための標識があるそうだ。神殿こそが不浄を清める唯一の場所であり、祭司階級が穢れてしまってはその浄化を行う者がいなくなってしまう。つまり神殿が成立しなくなるのである。 しかしその様な常識・律法の規定を越えて敵対するユダヤ人を助けたサマリア人の行為こそがイエスの説く隣人愛でありそのポイントを著者は3つ挙げる。 1 主体的な自由な行為 2 「見る」ことにおいて成り立つ 言い換えれば「一期一会」的な出会いにおいて成立する 3 境界線を越境する行為 これが キリスト教の説く「愛」つまり「隣人愛」である。 第三章 「神」の問題から神へ 著者によれば、キリスト教の創造神話は一つの世界観である。さらに旧約「コヘレトの言葉」は因果関係と神の無関係を述べたものである。(個人的にコヘレトは好きな文章です)では因果関係と無関係な「神」のシニフェとは何か?多神教と異なり一神教の神は比較が存在しないので「神」を表象するものも名もなく内容も持たないと述べられる。ユダヤ人だけの「神」であったものが「全ての人」の「神」となったのがキリスト教の「神」なのだ。 著者は一神教の神・万人の神に向かう方法・手段の一つがキリスト教というものであると考えているようだ。そして歴史の中で過ちを犯してきたキリスト教会の信奉した神はキリスト教徒という人間が作り出した神、自分たちに都合良く捏造した偶像であると。本来の一神教の神を信仰することは神を求めて万事を見渡すこと、万事に配慮することであると述べる。 ここで取り上げられるのはディートリッヒ・ボンヘッファー(1906−1945 ユダヤ人殲滅でヒトラーを支持したドイツ・キリスト教会に対し「告白教会」という対抗組織を指導した神学者)である。彼はゲシュタポに逮捕されドイツ敗戦直前に39歳で処刑された。遺された獄中書簡が引用される。 ボンヘッファーの遺した言葉。「われわれと共にいる神は、われわれを捨てる神である。」「成人した世界は神を喪失した世界である。そして恐らくその故に、未成熟の世界よりもいっそう神の近くにいる。」「イエスは新しい宗教ではなく、新しい生へと呼びかけている。」 ユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスを想起してしまった。レヴィナスの神ととても似ていると思う。 しかし、無色透明な神に対峙することは困難である。それでイエスの画像が教会に飾られる。 第四章 信仰、祈り、そして「あなた」との出逢い 著者は祈りの効用を孤独に自分と向き合うことだと言うが、別に座禅を組んで黙想することとどう違うのか?アタシには分からない。同様に神に二人称で呼びかけることで「私であること」が明瞭になり積極的行動ができるというのも「?」だ。神は人間が作り出した(想像した)ものではないから、祈るという行為に人間の恣意的な依頼や願掛けは無関係だというのは理解できる。しかし、祈り自体が神の応答であるというのは高邁で高尚過ぎるんじゃないの?(笑) 著者の意見では「原罪」とは世の理不尽さ不条理のことであり、それによってイエスは刑死した。そしてイエスの復活こそが希望なのだと言う。この世界は醜く穢れていて理不尽と不条理に満ちていることを基本的な出発点として受容せよ、「それでも、この世界は神の摂理に導かれている」という希望をイエスの復活を信じることで得られる。神と向き合うことが一般化できない「あなたーわたし」の領域を開示する。この領域を開示するものが神であると結論するのである。イエスの復活による希望を象徴するものこそが隣人愛である。 うーむ。確かに著者の考える真摯なキリスト教信仰論ではあると思う。しかし、キリスト教に全く無縁の日本人に理解し易い内容とは正直言って考え難い。というかキリスト教に限らずこの様に真摯に自己と世界を考えること自体がアタシを含め現在の日本人には欠落しているだろう。10年前に刊行された本だが内容が内容なので古び様がない。(笑)
by duchampped
| 2013-10-14 15:15
| 逍遙的読書
|
ファン申請 |
||