カテゴリ
以前の記事
2021年 01月 2020年 05月 2017年 04月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 10月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 04月 2012年 01月 2011年 12月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 04月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 11月 2008年 08月 2008年 04月 2008年 03月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 04月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 フォロー中のブログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
著者の井上章一さんは元来建築史家だ。『アート・キッチュ・ジャパネスク 大東亜のポストモダン』(青土社/1987)を最初に読んだ。その前の『霊柩車の誕生』(朝日新聞社/1984)や『つくられた桂離宮神話』(弘文堂/1986)で評価は知っていたが読んでいない。1991年の『美人論』(アタシも読んだ)で洛陽の紙価を高めて以来、井上先生すっかり風俗研究者となったらしい。そー言えば、最近、あかつきサンがFBで『性欲の研究/エロティック・アジア』(平凡社)の表紙をだしてましたな。 第一章 弘法大師空海が開いた真言宗総本山高野山の奥院に「大秦景教流行中国碑」という石碑がある。大秦とは古代ローマないしはシリア域を表す。景教はローマ教会からエフェソス公会議(431)で異端とされたネストリウス派が遥か中国にまで宣教したキリスト教徒である。景教が635年唐の長安に到り波斯寺を建立した。波斯とはペルシャのことであり、その後大秦寺に改名されたらしい。781年にはその隆盛を記念する石碑が大秦寺に設営された。高野山の石碑はこれのレプリカである。 空海が唐に留学した当時、景教は盛んだった。般若三蔵という空海が接したインド僧が景教の宣教師にソグド語で書かれた仏典の翻訳に力を借りたらしい。空海が教えを請うた般若三蔵は景教(キリスト教)の宣教師と翻訳作業を行っていた、つまりある種の知己であったワケ。 その後景教は衰退しオリジナルの「大秦景教流行中国碑」は大秦寺の境内に埋められ780年ほどが経過した。1620年代に中国を訪れたイエズス会士によって石碑が発見され西洋社会に衝撃がはしった。何と7世紀中国にキリスト教徒がいたのだ。7世紀のヨーロッパなど蛮族が盤踞する未開の地であってキリスト教布教はずっと後の話なのだ。 この石碑は19世紀にはバチカン博物館に収められた。日本でも京都大学が1923年にレプリカを入手。しかし 高野山の石碑はそれよりも早く1911年(明治44年)にアイルランド出身のエリザベス・ゴードンという女性が寄贈しているのである。夫人は詳細不明だがアマチュアの仏教研究者だったらしい。夫人は空海の伝えた教え、大日如来がキリスト教の神概念に根ざしたものだと考えたのである。 石碑が設置された1911年に『景教碑文研究』という本が刊行された。著者の佐伯好郎は景教の研究者。しかし佐伯はゴードン夫人とは逆に景教が唐で隆盛していた大日如来の教えを取り込んだのだ、とした。佐伯は京都の太秦(うずまさ)はこの大秦だというのである。この地を経営した秦氏はキリスト教徒であり広隆寺は教会だった。広隆寺の隣にある大酒神社は古代には「大辟」と表記された。唐の景教文献では「大闢」と記されユダヤのダビデを表したという。この門構えを取り去った大辟神社はダビデを祀っていた。また広隆寺西側の井戸「伊佐良井(いさらい)」はイスラエルが転訛したものである。考えるとほとんどトンデモな説だ。(笑) 佐伯はカナダに留学して言語学を学んだ(1893年頃)。1935年に『景教研究』という大著をまとめている。それによると、19世紀は欧米人がインド文明を把握し始めた、20世紀は彼らが中国・日本を理解する時代になるであろう、とカナダで考えたらしい。欧米人の景教に関する関心を日本にまで延長する目的でこの様なトンデモな説を唱えたというのだ。なお佐伯は1890年に聖公会で受洗したキリスト教徒であった。 この佐伯説を丸ごと取り入れたのが中里介山の『夢殿』(1929)という小説だ。この中で聖徳太子(厩戸皇子)とイエスキリストの生誕物語の類似が描かれる。キリスト生誕伝説を聖徳太子物語に付会したのは歴史家の久米邦武であるという。雑誌「太陽」1904年1月号の「聖徳太子の対外硬」という論文である。 教科書で法隆寺金堂の列柱がエンタシスでこれはヘレニズムの遠い影響であると習ったことを覚えている。今ではこの説は否定されているが、文明開化以降、日本人は西洋文明が極東の島国日本にまで古くから届いていたと主張したかったのだ。 歴史家久米邦武は『神道は祭天の古俗』(1891)で日本の古い神道は仏教と習合することでより高級な宗教に変貌したと述べた。彼はこれにより当時の為政者や神道関係者から攻撃され1892年に東大教授を非職(クビ)になる。これには1889年に発布された大日本帝国憲法に信仰の自由が認められたことに対する神道側の過剰反応もあったらしい。 第二章 15世紀伝来したキリスト教は当初妖術や魔術の宗派と考えられていた。徳川政権によってキリスト教が禁止されると、それは反逆の徴になる。その背景には大坂夏の陣に豊臣方についた多くのキリシタン侍がいるという。戦前「アカ」という非国民を呼ぶ共通の符丁があった様に、17世紀以降キリスト教は妖術や魔術を使う徳川政権への反逆者として捉えられる。由井正雪はキリシタンであったという説があり、幕府の御用学者林羅山にいたっては敵対する陽明学者熊沢蕃山をもキリシタンの亜種と呼ぶのである。しかし江戸も後期になると蘭学流行の影響もあってキリスト教が妖術を使う邪教であるという認識は薄れていく。 第三章 江戸後期の経世家本多利明や画家司馬江漢は仏教がキリスト教から派生したと考えた。1708年屋久島に上陸したイエズス会士ジョバンニ・シドッチを尋問した碩学新井白石は逆にキリスト教が仏教から派生したと論じた。(『西洋紀聞』東洋文庫)当時の知識人にとって世界の中心は天竺インドであり仏教が世界を席巻していると考えていたのだ。ヨーロッパは辺境であり、イスラム教はその存在すら知られていない。国学者平田篤胤に到っては聖書を「日本古伝の訛」としたのである。しかし篤胤自身の主著『本教外篇』が明末の天主教書の剽窃的翻案であるということを村田典嗣(かねつぐ)が指摘し、伊東多三郎が具体的な翻案過程を明らかにした。神道から攻撃された久米を擁護した田口卯吉は「神道はキリスト教を批判するが、平田派の神学なんて、まるでキリスト教じゃあないか」と反論した。(笑) 要は明治期に大量のキリスト教知識が輸入されるまで、江戸末期の知識人はキリスト教を仏教からの派生物、言ってみれば仏教や神道と同等の宗教と見なしていたのである。 しかし、不思議なのは鎌倉仏教以前の、本来の仏教は無神論ではないのか? 第四章 日本人とユダヤ人が祖先を同じくするという、所謂「日ユ同祖論」である。スコットランドから来た貿易商ノーマン・マクレオドが1875年(明治8年)に刊行した『日本古代史の縮図』がこの日ユ同祖論のさきがけである。しかし、過去に来日した西洋人たちは古くから日本人をユダヤ人の末裔と見なしていたというのだ。旧約聖書にはイスラエルの人々がバベルの塔を作り、神に憎まれ全世界に散らばって各民族になったという伝説がある。それが起源になったというのである。まぁ、今ではトンデモ本としか思われていないのだが。この後も、日本を脱出した薩摩の弥次郎がマラッカでフランシスコ・ザビエルに出会い、インドのゴアに行く。イエズス会聖パウロ学院のニコラオ・ランチロットが弥次郎から聞き書きした『日本情報』のことが述べられる。それがフランスのギョーム・ポステルの『世界の驚異』(1553)によって展開されている。さらには十字軍時代のプレスター・ジョン伝説を背景にした東洋でのキリスト教布教の幻想があり、16世紀に明を訪れたイエズス会士マテオ・リッチは中国北部に十字を切る人々を発見する。実は景教徒の生き残りだったのだがリッチは景教を知らない。そしてリッチもまた中国の仏教はキリスト教を模倣した代用品だったと結論するのである。 黄金伝説に収録された『聖バルームと聖ジョザファ伝』もまた釈迦=仏陀伝説が西方に伝わったものなのである。今は削除されているが、ローマ教皇は聖バルームと聖ジョザファを聖人に認定していたのだ。(笑) サンスクリット語とギリシア語ラテン語の類似が18世紀末にインド・ヨーロッパ語族の発見として認識され、インド・ヨーロッパの共通点が多く見出される様になった。ここから19世紀中頃から仏教をキリスト教の祖とする考えが出てきたらしい。 また長くなってしまった。とにかくまだまだ多くの人物や記録が延々と参照され続ける。興味があれば一読をお奨めする。面白いので短時間で読める、 しかし、この本を読んでも日本人がどの様にキリスト教を捉えたのかということの全体像はわからない様に思う。井上さんが参照した膨大な資料を見ても溜息が出るばかりだ。しかも数学とは異なり各資料の影響関係も想像で補うしかない。
by duchampped
| 2013-10-14 15:21
| 逍遙的読書
|
ファン申請 |
||