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![]() 薩摩治郎八というスゴイ爺さんがいて、パリで湯水の如くお金を使い当時の名車を乗り回し社交界の花形だった。という噂は1976年頃から読んでいた月刊誌カーグラフィックの記事中で見かけていた。記憶では昭和初期のパリで銀のクライスラーに乗っていたとかいうものだった。 この薩摩治郎八さん、何と1976年に亡くなっていたのだ。 35年前から名前は知っていたが実像を結ばないままだった。漸くこの本を見つけた。帯の惹句に依ればパリ生活30年少々で600億円(現在の金額になおして)を使ったという。庶民には想像もつかない額だ。(笑)実際にはもっと短期間にこの金額を蕩尽したらしい。(文中の金額は現在の参考価額に直したもの) この本には、同じ頃旧大名・皇族・公家から成る(薩長の新興華族ではない)華族たちがパリやロンドンの上流社会で大量に金を使っていたコトが描かれる。日本本土では第一次世界大戦後の恐慌に関東大震災が追い打ちをかけ、1930年の昭和恐慌まで東北農村をはじめ塗炭の苦しみに喘ぐ貧民が多数いた。一例をあげれば、徳川頼貞公爵は1929年5月から1931年2月の欧州旅行で今の金額で25億円を使ったという。(音楽関係の貴重な資料や楽譜を大量に日本に持ち帰っているので全くの無駄遣いとは言い難いが)この公爵サマの日本国内での年間生活費が25億円だったというのだ。国内では困窮した餓死者が発生していたこの時代にである。 彼らが使った金の原資こそアベ総理の大好きな「国益」から上層支配階級が上前を掠め盗ったものだ。そうじゃなきゃ国民が餓死などしない。(笑) しかし、薩摩治郎八がスゴイのは、この本の著者が400ページに渡って記述した様に「莫大なお金を遣ったこと」ではなく「そのお金を遣って彼自身がやったこと」なのである。彼のような日本人は言葉の正しい使い方で空前絶後なのだ。 実際に治郎八がどの様に洋行しどの様に行動したか、著者は社会背景を詳しく書き込むことで事態を鮮明にしている。伝記としての完成度が高いと思う。治郎八の祖父の代からの流れを実に綿密に資料に当たって記述している。実は戦後、全てを失った治郎八自身が原稿料と引き替えに多くの資料を遺している。しかし、これらの記憶が何とも大らかで前後関係や正確な年月日が同定できない場合が多い。著者は実に様々な資料にあたってこれを確かめているのだ。 その資料の中にアタシの大好きな『無想庵物語』(山本夏彦)が出てくるのが嬉しい。武林無想庵もまた1920年に渡欧していたのである。かなり奇矯ではあるが、同じ時代の証言者だ。 1920年、19歳でヨーロッパに渡った治郎八は「独身時代は1ヶ月200万円」で暮らした。パリで人妻との初恋を経て1925年1月に帰国。祖父以来の商売に従い月給150円(当時の大卒=超エリートの銀行員初任給が80円)をもらい父の広大な新邸宅に住むのを嫌い駿河台の旧宅跡に洋館を建てて住んだ。一階にフラゴナール風の絵と大シャンデリアの舞踏室、大理石のマントルピースのある20畳のテラス付洋室、マントルピース付の洋室、婦人の化粧室、使用人の小部屋、この広さに戦後主婦の友社所有となった時に作家獅子文六が住んだ。この他に2家族が同じ一階に暮らしたというから広さが想像できる。後年、インタビューでこの家について訊かれた治郎八は「バラックでして」と平然と答えたという。(笑) 1926年秋、治郎八は旧会津藩のお姫様で美人の千代夫人と結婚しパリへ戻る。有名なパリ日本館を建てる計画を持参しての渡欧である。パリにて薩摩財団を発足する。日本館の設計はピエール・サルドゥー、内装は藤田嗣治であった。この件で薩摩父子はフランス政府からレジオン・ド・ヌール勲章を受ける。治郎八のシュヴァリエ章は最年少での受賞、父治兵衛のコマンドゥール章は大臣クラスに与えられるものだという。ちなみに建築家の安藤忠雄が受賞したのはこのシュヴァリエ章である。 このレジオン・ド・ヌール勲章については事実関係が錯綜しているという。アタシは故開高健氏が対談相手の佐治敬三氏に「レジオン・ド・ヌール勲章受賞おめでとう」と言っているのを記憶している。しかし、佐治氏は受賞者リストには無い。 さて、エコール・ド・パリと呼ばれた一群の芸術家たち、その中でも藤田嗣治の周囲に留学して集まった多くの日本人画家が点描される。当時400人の日本人画家がモンパルナスに住みついていたというから驚く。多くの画家彫刻家の名前が出てくるが、パリ日本人美術家展覧会の項で薩摩治郎八と袂を分かった福島繁太郎という人が出てくる。この人は実作家ではない。帰朝後美術評論家として活躍し戦後は銀座にフォルム画廊を興した人だ。香月泰男を売り出したので知られている。亡父の版画コレクション(香月もあるが浜口陽三が好きだったみたい)がフォルム画廊のものだ。二階のトイレの前にアタシが生まれた年に作られた「パリの屋根」がかかっている。(笑)ちなみに福島繁太郎氏の夫人がエッセイストの福島慶子さんで薩摩治郎八と小学校の同級生だった。 この後、治郎八はパリの日本館に関する管理や何やらで日本とフランスを往復する。結局パリ日本館は政府の官僚が口出しはするが、実質は薩摩家の資金で賄われる。著者が書いている様に「官僚のタカリと無責任体質は今も昔も変わっていないようだ。」本書 p.255 この日本館を利用した日本人の挿話が書かれる。建築家白井晟一と流行作家林芙美子の恋愛譚は有名だ。他にもアタシが知っているダケで物理学者の中谷宇吉郎と弟の治宇二郎、前川國男、今和次郎、岡潔、山田守と錚々たる顔ぶれ。さらにこの時代の文芸サロンが列ぶ。正にプルーストが描いた世界だ。そしてジェイムズ・ジョイスを世に出したシェイクスピア・アンド・カンパニー書店。治郎八が父よりも親しいと敬愛した元大臣アンドレ・オノラとの交遊が描かれる。 やがて会津のお姫様千代夫人が病にかかり静養、帰国。そして1935年実家の薩摩商店が閉鎖となる。1923年関東大震災、1927年金融恐慌、そして1929年に始まる世界恐慌の荒波に対して祖父が一代で作り上げた薩摩商店は父と子が経営を番頭に任せ遊蕩に耽ったためにつぶれた。しかし閉店後も京都南禅寺、大磯、箱根の別荘、駿河台の治郎八邸(洋館)と父の大邸宅も残っていた。いきなり困窮したワケではないようだ。1935-37年治郎八は帰国して薩摩商会の整理にあたる。その後パリに帰るまで治郎八はタイで金鉱を探したり、タイ王室を引率して英国ジョージ6世の戴冠式に出かけたりと忙しい。 どうやらこの時期治郎八は実家の破産をあまり気にかけていない様だ。師と仰ぐアンドレ・オノラの清貧にも影響を受けたらしい。1938年から治郎八は日本で療養生活を送るがドイツがフランス・イギリスに宣戦布告を聞き万難を排して1939年暮れ、パリに戻る。既にパリの日本館は閉鎖されていた。藤田嗣治ら邦人芸術家は大挙して日本へ逃げ帰った。治郎八は南仏カンヌに病気静養に行く。1940年6月パリ陥落、イタリア参戦。どうやらこの時期治郎八はカンヌ・ニース周辺を行ったり来たりしていた。身辺の宝石や骨董を売って大量に日本の焼き物を購入、それをオークションで売り当時の金で50万フランになったというから治郎八は才覚にも優れていたのだろう。1942年11月ドイツ軍がフランス全土に進駐、治郎八は久しぶりにパリを訪れる。1943年暮れから連合軍がパリ爆撃を開始。治郎八は1944年パリに戻りアパートを借りる。6月連合軍ノルマンディー上陸。8月パリ解放。解放後の騒動でドイツ協力を疑われた在仏日本人救出に奔走した後再びニースに戻り超高級アパルトマンに住む。父の様に慕ったオノラが亡くなり治郎八は日本への帰国を決意。1951年4月、12年ぶりに故国の土を踏んだ。19歳でヨーロッパに渡った治郎八は50歳になる。 戦後日本での治郎八を著者は「金魚鉢の中の鯨」と表現しているが、実はこの言葉は紀伊國屋書店の田辺茂一氏が言ったもの。治郎八は新潮社を皮切りに押し寄せる出版社の依頼に4冊の本を書き多くのインタビューに応える。1955年に浅草に居を定め、1956年には30歳年下の踊り子と再婚した。治郎八55歳妻の利子は25歳であった。1959年妻の実家のある徳島で阿波踊りを愉しんでいた時に治郎八は脳卒中で倒れ、以後妻の実家徳島で療養生活を送る。この間、瀬戸内晴美(寂聴)が小説「ゆきてかえらぬ」で、獅子文六が小説「但馬太郎治伝」で治郎八を取り上げる。1966年治郎八は妻を連れて渡仏。妻は治郎八の流暢なフランス語、その友人たちの剰りの上流に驚く。連日超高級レストランで食事もノドに通らなかったという。3ヶ月の滞在を終えて帰国。1969年夫妻はもう一度パリを訪れる。この際も船旅であった。これが治郎八最後のパリ滞在になった。1976年2月2日薩摩治郎八永眠享年74歳。末期の水はシャトー・マルゴーだったという。 しかし、何という人生だろう。薩摩治郎八は黄金時代の輝かしき1920年代パリで青春を過ごした。ただ過ごしたのではない。著者は殆ど金銭のコトを書いていないが、30年間で600億円、年間2億円の生活をパリで30年間送ったのである。芸術家たちとのつきあいも凄い。ふと60歳のヘミングウェイが若き日々(1921ー1926年)に滞在したパリを思い出して書いた遺作『移動祝祭日』(新潮文庫)を想起してしまった。あるいはニューヨーカーの記者カルヴィン・トムキンズの『優雅な生活が最高の復讐である』(リブロポート/1984)が正に描いた世界でもある。このリブロポート版はウィリアム・モリスが理想とした余白のとり方で本文が印刷されている。新潮文庫から原本の改訂版(1998)を同じ訳者の青山南さんが訳したものも刊行されている。 余談だがトムキンズさんとは1972年の『花嫁と独身者たち』(美術出版社)以来のつきあいである。(笑)この本の場合はタイトルを見た瞬間にデュシャンのコトを書いていると分かっちゃう。(笑)その後1996年に“Duchamp”という浩瀚な伝記が刊行されたので買ったが読まないウチに翻訳がでた。『マルセル・デュシャン』(みすず書房/2003)だ。翻訳は高いので買っていない、つか 買えない。(笑) 今年、トムキンス氏はデュシャンに関するインタビューを刊行されているので買わなきゃなぁ。アタシは漫然とデュシャン本を集めているのです。自慢はパリのポンピドゥー・センターのこけら落としで開かれたデュシャン回顧展のカタログ!これは日本国内には滅多にないぜよ。(笑)
by duchampped
| 2013-10-18 13:11
| 逍遙的読書
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