|
カテゴリ
以前の記事
2025年 09月 2024年 11月 2021年 01月 2020年 05月 2017年 04月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 10月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 04月 2012年 01月 2011年 12月 2010年 12月 2010年 10月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 04月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 11月 2008年 08月 2008年 04月 2008年 03月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 04月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 フォロー中のブログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
アタシの書架にW.G.アストンの『神道』(安田一郎訳 青土社 新版/2001)がある。著者のアストンは1864年(元治元年)安政条約締結から1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布までの25年間をイギリス公使館員として日本で過ごした初期日本学の泰斗である。彼は『日本書紀』を英訳し、それに精緻な註解を付したことでも高名な学者だ。 イギリス公使パークスが「土着の信仰に過ぎなかった神道が政治的手段に転化し、宗教としての性格を失い、やがてこの国の支配者に都合のいいものに作り変えられて行くのではないか」という危惧を表明した正に1874年(明治7年)、アストンは公使館員としてそのすぐ側にいた。 しかし彼の『神道』を読む限り宗教学の立場から日本の神道を扱おうとしたアストンはその様な神道の政治手段化(国家神道化)については興味がもてなかった様だ。それ故に「神道の政治手段化」を除外して、アストンは「神道の在り方に対する価値判断」が含まれない(妙な右翼・左翼的な偏向がない)「神道という事態」を記述していて好感がもてる。しかもアストンは無闇に国家神道を称揚するどこかの末端皇族と違って日本の古典に対する正確な知識と同時代人であるフレイザーの仕事などに対する細やかな目配りがあった。 その上この新版は筺入り美装でアタシ好みの書物なのだ。 しかしいささか古いことは否めない。アストンがこの本(原著)を書いたのは1905年なのだ。特に明治維新政府が国家神道を政治的な手段として作り上げた事への言及がない。 そこで、いきなり105年後に島薗進氏によって書かれた本書を読んだワケである。 国家神道という用語は、明治維新以降、国家と強い結びつきをもって発展した神道の一形態を指す。それは皇室祭祀や天皇崇敬のシステムと神社神道とが組み合わさって形作られ、日本の大多数の国民の精神生活に大きな影響を及ぼすようになったものである。皇室祭祀や天皇崇敬のシステムは、伊勢神宮を頂点とする国家的な神々、とりわけ皇室の祖神と歴代天皇への崇敬に通じている。国家神道においては「皇祖皇宗」への崇敬が重い意義をもっており、神聖な皇室と国民の一体性を説く国体論と結びつく。 同書 p.57 簡単に言ってしまえば、国家神道は明治政府が江戸末期の国学者たちの国粋論に基づき国民統合の具として利用したものである。 11ページに明治政府の宗教政策を年表にしたものが挙げられている。 1867年(慶応3年)王政復古の大号令 1868年(慶応4年明治元年)祭政一致、神祇官再興布告、神仏分離令布告、 1869年(明治2年)皇道興隆の御下問 どうすれば皇道が興隆するのか?=国家神道をひろめることができるのか?という方策を下々に提案させるためのもの。しかしこの方策としては1890年の「教育勅語」が妙案として作り出されるのを待たなければならなかった。ちなみに 「皇道」の語は「国体」という政治理念を天皇崇敬の実践に引き寄せつつ、様々な思想的宗教的立場を包み込む包容的な制度を構築する語として幕末期に台頭してきたものである。 p.111 「皇道」は「惟神(かんながら)」「現御神(あきつみかみ)」「神皇一体」「祭政一致」「神道即皇道」などの語とセットで用いられるのを常とした。つまり、天皇による統治の特別な価値を掲げる国体論を前提としつつ、そこに神道色宗教色が盛り込まれているのが特徴である。 p.113 1870年(明治3年)大教宣布の詔 1871年(明治4年)太政官布告(神社は「国家の宗祇」)、神祇官を神祇省に格下げ 1872年(明治5年)神祇省廃止、教部省設置(大教院を中心に神仏合同布教) 1873年(明治6年)切支丹禁止の高札撤去 1875年(明治8年)大教院廃止、信教自由の口達(教部省) 1877年(明治10年)教部省廃止、内務省社寺局に事務移管 1882年(明治15年)神官の教導職兼補を廃し、葬儀に関与しないものとする 1884年(明治17年)神仏教導職全廃(聖職者の国家認定制廃止) 1885年(明治18年)「神社改正の件」(伊勢神宮以外の神社への財政支援切り捨て予告) 1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布 この憲法は天皇が定めた欽定憲法である。第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり第三条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とある。「臣民タルノ義務」には「万世一系」の天皇への崇敬が記されていた。国体論を前提とする天皇崇敬に背かない限りでの信教の自由、思想・良心の自由が記載された。 1890年(明治23年)教育勅語発布 国民が小学校以降暗唱させられ、国家神道普及に最も効果のあった文書である。その内容は「天皇は皇祖皇宗を引き継ぎ徳治を続けてきた神聖な存在である」「臣民は国家の創始以来天皇に仕えつくす関係にあり、それが称えるべき規範である」 一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ つまり戦争などの際には義勇をもって「公(この場合は天皇を神とする国体)」につくせという。数百万人の国民・兵隊を無意味な死においやった言葉である。戦死者の7割が餓死(それに起因する戦病死)だというデータもある。 そして後半に、ここに書かれた内容が先祖代々受け継がれてきた天皇と臣民の紐帯に基づく普遍的な価値をもつことが述べられる。言い換えれば、国家の神的な起源以来、変わること無く一体性をもった天皇・臣民関係が続いてきた、というお馴染み「国体」が自慢される。 しかし、そもそも明治維新以前に天皇という存在を知っていた日本人は極めて限定された者だけだ。 国家神道とは何かを知る上で教育勅語がもつ意義は、いくら強調しても強調し過ぎることはない。それは教育勅語が国家神道の内実を集約的に表現するものだったとともに、それが多くの国民に対して説かれ、国民自身によって読み上げられ、身についた生き方となったからである。教育勅語は1945年以前の日本国民の「公」の領域での思想的身体を、また心の習慣を形作る機能を果たしたと言ってもよいだろう。 p.39 天皇と臣民の間の濃密な紐帯を喚起することが、国家神道の情緒的基礎を形作るのだ。 p.64 1894年(明治27年)内務省訓令、伊勢神宮と官国弊社の共通祭祀を指定 1900年(明治33年)内務省神社局設置、社寺局は宗教局へ 1906年(明治39年)国庫供進金制度(神社への財政支出制度化) 1907年(明治40年)内務省「神社祭式行儀作法」告示 1914年(大正3年)「神宮祭祀令」「官国弊社以下神社祭祀令」が勅令として公布 これらは、国家が神社を「公」の「国家祭祀」機関とし、仏教、キリスト教、教派神道を「私的」な領域の「宗教団体」として区別する政治体制が徐々に完成する過程である。 この国家祭祀とは「祭政一致国家構想」の中での皇室祭祀への偏重だ。しかし、実はこの「皇室祭祀」は明治政府によって拡充されたものがほとんどで「伝統的」でも「古代以来」のものでもない。実際に現在、天皇が祭司となる皇室祭祀13のうち古代以来のものは「新嘗祭」1つだけである。「神嘗祭」は本来伊勢神宮の祭祀であるし、残りの11は明治政府による「国体論」を補強する新設の皇室祭祀なのである。 明治維新までは、伊勢神宮の五十鈴川内側神域にも多くの民家があった。維新後伊勢神宮は国家による管理下に入り、天皇・皇室との関係を強め、皇室祭祀と一体の荘厳な国家神道の聖所へと変貌する。もちろん維新政府によって神域の住民は強制排除された。 明治政府の新設した皇室祭祀の多くが祝祭日に行われ国民生活にも組み入れられた。学校行事やマスメディアを通じてこれらの祭祀が国民に皇室への崇敬を強要した。休日なのに児童生徒は学校に集められ皇室祭祀への参加意識を強制された。1893年には君が代が祝祭日に小学校で歌われることが告示された。 こうしてみてくると国家神道とは幕末期の狂信的な国学者達の思想、その都合の良い部分を国家運営の理法として上手に運用するという明治政府の冷ややかで怜悧な政治手腕の一方法であったのだ。良否を問わずに言えば実に見事な国民統合と牽引の方法であった。 もちろん明治政府内での国学者たちの権力争い、津和野派が平田派を圧倒すると彼らの考えが大久保利通・木戸孝充など為政者達の国家運営方針と上手く合致した結果なのである。「草莽」の連帯を指向した平田篤胤にい対し、集権的な政権中枢で高級官僚として実行すべき政策を求めた津和野派が勝利したのはある意味で合理的なのだ。 しかし、この国家神道は民衆向けの「顕教」とエリート向けの「密教」の二重構造だった。 初等・中等の国民教育、特に軍隊教育は天皇の絶対的権威、絶対的主体として徹底的に刷り込まれた。しかし天皇の側近や周囲の補弼機関からは天皇の権威はシンボル的名目的なものであり、天皇の実質的権力は補弼機関が代行するシステムとなっていた。つまり憲法解釈的に「顕教」は天皇=絶対君主であるが、「密教」では立憲君主制となり天皇機関説となる。小・中学校・軍隊では「顕教」が徹底的に教え込まれるが、大学・高等文官試験にいたって「顕教=たてまえとしての天皇」であることが明かされ、「たてまえ」で教育された国民大衆を「密教=もうしあわせとして天皇」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚が指導するというシステムが構築されたのである。 明治政府の伊藤博文、井上毅らはこの「密教」の立場が政治システムを統御し続けると考えたのだ。しかし昭和中頃にもなると「顕教」を旗印にした下からの運動、その影響を受けた軍部、衆議院が統御を超えて「密教」の作動を困難にしていく。 軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省を従え、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明微運動を開始し、伊藤の作った明治国家システムを最後にはメチャメチャにしてしまった。昭和の超国家主義が舞台の正面に躍り出る機会をつかむまでには、軍部による密教征伐が開始され、顕教によって教育された国民大衆がマスとして目ざまされ、天皇機関説のインテリ臭さに反発し、この征伐に動員される時を待たねばならなかった 『現代日本の思想』久野収・鶴見俊輔(1956) p.132 そして日本は無謀な戦争に突き進み敗戦を迎える。 しかし、戦後のGHQによる神道命令が天皇祭祀を例外としたことや、神社本庁という伊勢神宮を頂点にする組織や靖国神社が天皇崇敬を主張し国家神道をそのまま継承称揚する活動を行うなど国家神道は脈々とその活動を続けている。 著者はそれらをもっと注視する様に警告している。
by duchampped
| 2014-06-06 11:22
| 逍遙的読書
| ||||||
ファン申請 |
||