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![]() この著者の文章、というか名前を記憶したのは既に休刊して久しい「NAVI」という二玄社から発行されていた雑誌だった。CAR GRAPHICが自動車のハード面にポイントした誌面を作っていたのに対して、自動車という文化が前提とされる世界、余り好きな言葉の使い方ではないが「自動車のソフト面」に注力した雑誌だった。アタシはその1984年の創刊号、大川悠編集長からスズキさん(鈴木正文編集長)が辞めるまでの15年間、この雑誌を毎号丁寧に読んでいた。 この誌面に若い編集者として登場したのが武田徹氏だった。NAVI誌を創刊号以外は(気に入った連載をクリッピングして)廃棄してしまったので実際に彼が書いた記事を参照できないのが残念だが、当時急速に社会的現象となっていた「ニューアカ・ブーム」を揶揄するような文章を武田氏は書いていたのだ。そのシャープでクリティカルなスタンスが印象的だった。以降、アタシは武田氏の署名記事を意識的に探した。 1989年に武田氏は本を3冊出版した。早速アタシは読んでいた。 1989.11.01 紛いもの考 シミレーションと戯れる時代 武田徹 CBSソニー出版 1989.11.09 イッツオンリーロックンロールジャーナリズム 武田徹 ビクター音楽産業 1989.11.13 948歩目のトレンドウォーク 武田徹 主婦の友社 若々しい好著だった。学者っぽくはないのだが、思惟の芯の部分を顕さない見事な文章が時代を巧く捕らえていた。しかし、言い換えれば知的だが浅薄で熟考を覆い隠す様に表面を志向しているとも感じられた。 ちなみに1989年、アタシはCMの仕事が忙しくて読書量が100冊に達していない。面白かったのは、 1989.02.25 青髭 カート・ヴォネガット 浅倉久志訳 早川書房 1989.04.13 離婚の研究 A・アルヴァレズ 高見安規子 晶文社 1989.05.24 東京まゆつばシティー 杉森昌武 リクルート出版 1989.06.05 恋情は思い余って器官にむかう 倉本四郎 筑摩書房 1989.06.27 脳細胞日記 太田健一 福武書店 1989.07.25 欲望のウロボロス 丸山圭三郎 勁草書房 1989.08.16 邪推するたのしみ 井上章一 福武書店 1989.09.04 複雑な彼女と単純な場所 矢作俊彦 東京書籍 1989.10.21 小春日和 金井美恵子 中央公論社 1989.12.31 探求2 柄谷行人 講談社 懐かしいなぁ。幾星霜。 その後、武田氏の本を読むことはほとんどなかった。アタシ自身が生きている同時代にウンザリしていた。ウィリアム・モリスをタイトルにした文庫本を読んだが、ハッキリ覚えていない。 そしてこの本。知らなかったけど武田氏はいつの間にか大学の先生になっていたのね。 この本は世間を震撼させた事件が、一定の時間が経ち人の記憶から消え始めた頃にその事件の起きた現場をルポするという体裁をとっている。この本が事件の現場を再訪し改めてその真相を暴こうとするノンフィクション作品と異なるのは、 現場を訪ねる目的が、出来事の本当の原因や事件の真相などを掘り起こし、暴くためではなく、「風景」を見るためだというところだ。 p.3 と、著者は前書きに書いている。「風景」に惑わされる危険について、ジンメルの『風景の哲学』を援用して風景を規定(イメージを統一)するのは観る側の「気分」なのだと言う。 「風景」は外部のファクトや事物に向かう意識の中に浮かび上がる心象だが、柄谷行人が言った様に「風景」は「内面」と共に「発見」されるのである。 その意味で「風景」は「世界観」と呼ばれてきた概念にも近い。 p.10 言い換えれば「風景」は恣意的な自己投入、つまり他者の排除という暴力を招来する。暴力とはこの「他者の私物化」を言っている。 そんな問題意識から筆者は、戦後の大きな事件や出来事の現場を改めて訪ね、今、目の前のそうとしか見えないかたちで広がる「風景」を眺めつつ、それを唯一絶対のものとせず、複数の「風景」を見ようと努めてみたい。文献などを辿り直すことで過去に見られただろう「風景」を再現し、今「そうとしか見えない風景」を、それ以外にもありえる「風景」と重ねて、「風景」の構造を示してみたいと思う。 p.12 実際のルポは 第一部 戦後史の風景 第一章 米軍基地のある風景 沖縄 第二章 革命の風景 連合赤軍事件 第三章 ウラ日本の風景 田中角栄『日本列島改造論』 第二部 想像力の中の風景 第四章 暴力化する風景 村上春樹『ノルウェイの森』 第五章 虚構と風景 宮崎勤事件と国道16号線 第六章 もうひとつの風景 オウム真理教事件と富士山 第七章 物語としての風景 酒鬼薔薇聖斗事件と神戸 第八章 塔の国と根の国 マッカーサー道路と秋葉原連続殺傷事件 ・・・という章立てになっている。 第四章、107ページに村上春樹が引用されている。 「僕は、何かで不愉快になったり苛立ったりしたときには、その対象をひとまず僕個人とは関係のないどこか別の区域に移動させてしまう・・・これまでの人生の過程において、そのような感情処置システムを適用することによって、僕は数多くの無用なトラブルを回避し、僕自身の世界を比較的安定した状態に保っておくことを可能にしてきた。」 p.107 これはデビュー以来、村上春樹の主人公達の示してきたデタッチメントの要諦だ。しかし『ねじまき鳥クロニクル』で村上春樹はコミットメントに宗旨替えする。それはもはや阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件という暴力に曝された世界が縫合できる臨界を越えてしまったからだと著者は言う。 言い換えれば、シニシズムという分かり易い防護服を脱いで空虚で危険な世界と対峙するスタンスだ。筆者武田氏のスタンスは微妙に異なっている。シニシズムではなく、ジャーナリズムというより社会性が表面を防御するシェルターをカタツムリのように担いで移動している。 もちろん「裸性」というものが、抽象的な思惟の中にしかないことを筆者は強く意識しているからだ。抽象的な思惟は「風景」を疎外する。 語られている事件や現象はよく知られたものばかりで、特に内容を云々する様なことではない。むしろ、前書きで筆者が述べた様に、「風景」を錯視する「自己という事象」の再構成作業が淡々と語られる。そしてそこからは注意深く抽象度の高い思惟は片寄せられ、防御シェルターの換気扇の様に作動している。もちろん筆者が書きたいのはこの「換気装置」なのだ。 再び村上春樹が引用される。 あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか? 村上春樹「目じるしのない悪夢」 p.183 何だかボルヘスの白日夢か、ディックの悪夢を思い起こさせる文章だ。というかブンガクでは古来から繰り返し用いられたものだ。 言い換えれば、視線、つまり「風景」を構成してしまう主体こそが暴力の源泉だという実に当たり前の事が述べられているに過ぎない。 アタシはむしろ同時代における思惟の極めて知的だが標準的な、良くも悪くも表面的な在り方として武田徹氏の著作をとても愉快だと思う。
by duchampped
| 2014-12-04 23:44
| 逍遙的読書
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