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![]() われに慕わしきは眠ること、さらに慕わしきは石となること、迫害と屈辱のつづく限りは。 見ず、聞かず、なべて感ぜず、それにもまさるさいわいは今のわれにはあらじ。 されば、われを揺り起こすなかれ、物曰うなら、声低く語れ。 ミケランジェロ この本の主題は時間論である。絵画に描かれた時間。しかし時間とは何であるかは難しい。量子力学者渡辺慧氏の「時」(河出書房新社 1974)を読んだが「物理的時間」は難しくてよく分かったとは言えない。 むしろ生物学者池田清彦先生が言う「言語が時間の発生装置である」という考え方がシンプルで分かり易いのでアタシは好きだ。しかしこの本の著者益田朋幸さんの様に「個々の人間の中に時間が流れる」というのも説得力がある。 池田式に言い換えれば、個々の人間は現象であるから時間を含んで存在する、つまり「変化する現象」である。しかし自己同一性は常に「一定の自己」を維持する」様に見せかけるために「変化する現象」の中に「不変であるかの様な自己」を措定する。この措定された「自己」は「言語」とほぼ言い換えることが可能だ。 著者の益田さんはビザンティン美術の専門家。東方教会と言えばイコンだが、教義ではイコンは天上の本質(神)を観想するための「窓」に過ぎない。本来不可知・不可視である神は「受肉」(incarnation)によりナザレのイエスという肉体を通して神の言葉を伝えるのだ。アタシにはこの教義とユダヤ教に由来するはずの「偶像崇拝禁止」との関係がよく分からないのだが。 不思議なコトにカトリックの聖堂にもこれらのビザンティン・イコンが飾られている。 イコンと記憶、神のイメージと偶像。何故か、ハンス・ベルメールの切断され接続された人形の肢体を想像してしまう。 写真術(瞬間の固定と再現)という「視覚的記憶=形象化」を持たなかった印象派以前の記憶の在り様とはいったいどうだったのだらう。このことを著者の益田氏は紀元前5-4世紀アッティカ地方の大理石墓碑に残された浮き彫りを分析することで考えている。 実際に古代人の記憶は我々には不可知なのだがそれを想像しながら話の合う友人と酒を酌むのは金が掛からない楽しみだ。 さて、この本の中で微妙なのは渡辺慧氏的な物理的時間ではなくむしろ池田式の脳内時間を巡って論考していることだ。言い換えればほぼ哲学的な思惟なので必然的に「場」も物理的と言うよりも思弁的な「広がり」を指す。しかも美術史の専門家として「描かれたもの」と「記憶」との参照関係を考えてしまうのである。お約束でちゃんとロラン・バルトも参照される。嬉しいね。 アリストテレスとパスカルが犯した論理上の誤りとは、絵画が単なる「対象」ではなく「事態」であることを忘れていること、描かれた対象(顔)と絵画(肖像画)を同一の論理階型のものとして述べたことである。論理は時間を含まないから、論理階型の差そのものが時間を生む訳ではない。しかし絵画に含まれる各要素は、それぞれに異なった文脈の時間性を持つから、要素間に一種の「時差」が生まれる場合もあるだろう。本書 p.125 原理的に、イメージは何ものかの現前しか語りえない。死者の肖像もイコンも、描かれた対象の「ここにある」ことのみを語る。しかし観る者の記憶の中に、描かれた人物と共有した時間がある場合、イメージによる現前が触媒となって、メタレベルで記憶の中の人、かつて存在した人の「不在」を強調するのである。本書 p.127 つまり、イコンには時間が集積統合されている。葬儀などに使われる肖像写真はこの「集積統合された時間」を目指すものだ。しかし、記憶されている「他者=顔のイメージ」というのは「時間」という要素と組み合わせるのがひじょうにやっかいな事項なのだ。もちろん著者がこの本で主題にしているのはこの記憶とイメージ、その表現/再現を巡る美術史的な文脈なのだが。 聖画に描かれた人物画持っているもの(身辺に置かれたもの)はアトリビュートと呼ばれ描かれた人物を同定する。このアトリビュートが象徴であるのか記号であるのか。換喩(metonymy)をも含めたこの辺りのことは本書p.171-175に詳しいしこの部分が著者の主題の一端でもある。 パノフスキーのイコノロジーを援用するがその有効性については懐疑的だ。要はパノフスキーほどの精緻な資料蒐集と読み込みがあって辛うじてイコノロジー的解釈は成立するという立場。しかしそれはルネッサンスから印象派以前の絵画について言えることではないのか。網膜的とデュシャンが呼んだ様な絵画にイコノロジーは適用できない。 いずれにしてもアタシのよーな閑人にはたまらなく愉快な内容だ。アクチュアリテが洗ったよーに欠如していて閑雅で上品。濁世がイヤになったらこの手逃避が君子の嗜み、ってさ。(笑) 冒頭のミケランジェロの詩は「新しき幕明き」(『歴史の暮方』所収 中公文庫)で林さん自身が訳されたもの。
by duchampped
| 2015-06-23 16:20
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