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![]() ![]() 巷間ネトウヨ諸氏が「反日」だの「愛国」だのと喧しい。驚くのはその発言が2.26事件前後の右翼の言辞と極めて近似している事だ。2.26という陸軍部隊の専横に昭和天皇が激しく憤った事は有名だが、その後の日華事変、太平洋戦争へと国家を引きずっていった右翼(陸軍)と国民の熱狂がその背後にある。 昭和天皇は戦後ウミウシの研究で有名だったが、戦前は陸軍の専横と右翼を強く嫌っていたことが侍従や高官の残した記録から分かっている。 元老・西園寺公望の私設秘書でその後貴族院議員になった男爵原田熊雄が親友で昭和天皇の側近であった木戸幸一侯爵から天皇の右翼嫌いを聞いた日の日記。 「元来右翼といふものの内容は何もない。ただ感情で尊皇攘夷みたやうな忠君愛国とか、排外的ななにだけで、何もそこに内容の見るべきものがない。一定の職業もなく、何等の見識もなく、ただ徒らに感情によつて他を排擠(はいせい)することのみを考へてゐる。しかもその標榜するところは「自分ぐらゐ忠臣はない。自分ぐらゐ皇室を思ふ者はない」と言つて、徒に自分の存在を誇つてゐるだけで、何も認むべき内容がないのが今日の現状である。」と日記に記したが、その欄外に西園寺公望の手で「以下同感の至り」と書きこみがある。 本書 p.392-3 当時陸軍はこの原田日記を危険視していたという。しかし、この内容は昨今のネトウヨに対してもほぼ当て嵌まるから80年経っても哀しいくらい進歩がない。 山本五十六が最も嫌ったのはこの様な右翼(陸軍)や大衆の軽挙妄動であった。冷静に合理的に世界情勢を把握し国力に基づく正当な国益を追求すること、言い換えれば人民の生命を戦争という多大な消耗に曝すこと無く国家を安寧に保持することが帝国海軍の役割だと考えていた。 上記の様な考えを抱いていた山本五十六が中央政界から連合艦隊司令長官に追いやられ、長いアメリカ生活の中でその工業力の巨大さを知った上で「絶対に勝てっこない」と最後まで反対したアメリカとの戦争の中枢に置かれたことは何よりも歴史の皮肉だ。 上巻では昭和9年ロンドンの海軍軍縮会議主席代表に選ばれた山本五十六がロンドンで英米の海軍提督たちと丁々発止のやりとりをするところから始まる。昭和11年に山本五十六は海軍次官になり、後の「海軍左派トリオ」と言われる米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、そして井上成美海軍軍務局長が揃う。この三人が最後まで陸軍(右翼)の押し進める日独伊三国同盟に反対することが描かれる。ドイツと同盟することは極東の島国日本に何の益もない上、正に対米戦争に直結すると彼等は危ぶんだのである。 しかし米内・山本・井上の左派トリオの奮闘は終わる。昭和14年夏に山本五十六は連合艦隊司令長官になり陸を離れた。翌15年、平常は立憲的に厳格で政治的な関与を好まない昭和天皇が 「陛下御自身後継内閣の選定についてイニシアチブを取られるといふことは全くの異例であるが、陛下は謂はば御性格から陰謀的な日独伊三国同盟を御好きにならず、平沼内閣で問題が紛糾した際、不眠症で一時葉山に静養されたこともあつた位で、自然何とかして、日独伊同盟を未然に防止したいお気持ちのあつたことは蔽へない」 同 p.435 と、左派トリオの元・海軍大臣米内光政に組閣が命じられたのだ。総理大臣になるということは米内の海軍軍人としてのキャリアが終了するということでもあった。組閣と同時に陸軍(右翼)は倒閣運動を始めている。とにかく陸軍は陰謀とか権謀術数とかが大好きな人たちなのだ。 不勉強で分からないのが、この陸軍(右翼)が天皇の意に逆らってまで日独伊三国同盟とアメリカとの「担当者である海軍が勝てないと太鼓判を押した」戦争に固執した理由だ。それだけの「利」が彼等にはあったということだろうが、国家を危機に陥れても自分たちの利益を大切にするという官僚体質は戦後も受け継がれている。 半年後の昭和15年7月、米内内閣は総辞職した。第二次近衛内閣の下、松岡洋右外務大臣と東條英機陸軍大臣が登場し二ヶ月後の9月には日独伊三国同盟があっさりと成立してしまう。 もちろん背景にはヨーロッパで始まったヒトラーの電撃作戦による破竹の進軍が大衆の心を魅了したことは否めない。マス・メディアがそれを煽りに煽った。彼等に思考せよと求めても無駄なのだ。 頼りの吉田海軍大臣は右翼(陸軍)の攻撃にノイローゼで辞職。その後を及川古志郎大将が継いだが、井上成美曰く, 「相手が日本陸軍という、陸軍第一、国家第二の存在であるのに、誰が及川を大臣に持って来たのか、不謹慎極まる人事であった。あの定見のない無能ぶりを、陸軍が承知していて、近衛あたりに推薦したとしか考えられない」同 P.441 斯くして、有能とは言い難い連中が現在の政権の様に戦争への道を指導する。 おそらく彼等に異をとなえる気骨ある官僚(=軍人)は外され、ひたすら上目使いの無能な官僚たちが省庁(=軍)を率いる。このことが議会制民主主義のルールを平然と破る事務方を、1930年代に生み出し、そして今また生みだしつつある。 あるいは先般、オリンピックの競技場やシンボルマークの件でどれ程無様を曝したかは周知の通りだ。実害はある。 しかし、実際に前線で命のやりとりをするのは彼等では無い。彼等にはノブレス・オブリージュという見識はカケラも無い。 危機が迫れば真っ先に逃げ出すのは口先だけ勇ましい詐話症の総理だろう。そして有能な人材が前線で「消耗」される。たぶんそれが「美しい日本」の末路だ。 中川淳一郎さんなどの記述によればネトウヨ諸氏は社会のあまり上等では無いポジションに犇めいているそうなので、”経済的徴兵”によって彼等こそが真っ先に無意味で無駄な死の待つ前線へ送られるかもしれない。しかしこれは半ば彼等の望んでいる事態かも知れないので放っておく。1930年代に右翼と陸軍の扇動で日本を戦争に向かわせた大衆もまた何も考えない善意の庶民だった。真っ先に自分たちが手酷く搾取され、前線で殺され、空襲で焼かれるという運命を自らで選んだのだ。歴史は繰り返されるのか? 日米開戦まであと1年あまりしかない。ウンザリしながら下巻に続く。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ここから 下巻。 連合艦隊司令長官は初代の東郷平八郎から山本五十六の前任吉田善吾まで2年以上在職した例がなかった。しかし山本は昭和16年、日米開戦の年の夏を過ぎてなおその職にあった。態度の定まらない海軍にあって日米開戦を避ける為に自分は退役できないと覚悟したのである。米内光政は既に退役していたが、幸い井上成美は航空本部長になっていた。 ここで著者の阿川弘之さんは歴史の「禁じ手」である”if”を持ち出す。 もし開戦直前のこの年、大臣の地位に固執した山本と同期の嶋田繁太郎に替わって第三次近衛内閣、東條英機内閣の海軍大臣に山本五十六がなっていたら(実際に堀悌吉を中心に米内光政、岡田啓介など山本五十六を中央に戻す動きがあった)、日米開戦のタイミングは先に延ばされ、その間にドイツ軍の頽勢は明らかになり、日本は世界動乱に対してもう少し冷静で有利な方向を選択しえたのではないか、と書いている。右翼(陸軍)や熱狂する大衆からは「腰抜け」「親英米」と激しく攻撃されながらも山本五十六はそれに耐え開戦を可能な限り先送りしただろうと言う。 もちろん歴史はそうはならず、山本五十六は連合艦隊司令長官のまま12月の真珠湾攻撃の奇策を建てることに熱中していた。 開戦前、近衛首相に戦争の見込みについて問われた山本五十六の回答はひじょうに有名だ。 「それは、是非私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れて御覧に入れます。しかし、それから先のことは、全く保証出来ません」本書 p.58 特に前半の「1年や1年半は存分に暴れて御覧に入れる」の部分はよく知られている。しかし後年井上成美は「山本さんの黒星」であるとして次の様に言った。 「ああいう言い方をすれば、軍事に関して素人で、優柔不断の近衛公が、とにかく1年半は持つと、曖昧な気持ちになるのは分かり切ったことでした。海軍の見通し如何と聞かれて、何故山本さんは、海軍は対米戦争をやれません、やれば負けます、それで長官の資格が無いと言われるなら、私は辞めますと、そう言い切らなかったか。」同 p.59 井上成美の言い分は、残念ながら正しいだろう。 著者の阿川さんは、連合艦隊司令長官として鍛え抜いた部下たちの実力を知りたいという山本五十六の軍人特有の心理や三国同盟や日米開戦に反対して右翼(陸軍)の使嗾する大衆から「腰抜け」と罵られ続けたことへの反発などが在ったのではないかと書いている。 あるいは敢えて危険な場所を選んで逆立ちをしては見ている人たちをハラハラさせて喜ぶという奇癖のあった山本五十六のことである、人間的に嫌いだった近衛に対して「ちょっとばかり子どもっぽい軽口」という茶目っ気だったのではないか、とも阿川さんは指摘している。 その山本五十六は一方で連合艦隊ハワイ真珠湾奇襲を周到に準備しながらも最後まで開戦に反対し続けた。しかし10月には海軍軍令部がハワイ奇襲作戦を正式に認め、11月には実質的な真珠湾奇襲作戦の奉勅命令「大海令第一号」が発せられた。 つまり日米開戦は決定されたのである。もちろん米政府と最後まで交渉をしていた日本大使館の返事如何では出撃した航空機を呼び戻すことまで山本五十六は考えていたのだ。 ここに今なお完全には結論の出ていない問題がある。米政府は実は真珠湾奇襲を事前に知っていて「日本に先に手を出させた」のではないか、という疑いである。この時点で日本の暗号電信はアメリカによってほぼ解読されていたのである。しかし阿川さんは、疑わしい点は多々あるにせよ、被害の甚大さから見て、やはりアメリカ政府首脳は真珠湾奇襲を知らなかったのではないか、と書いている。 いずれにせよ、真珠湾奇襲は成功した。 以降、山本五十六は一切の反戦的言辞を口にしない。 しかし、何故南雲司令官は部下たちの二次攻撃要請を無視してアメリカ側が胸を撫で下ろした重油備蓄タンクと軍工場を手つかずで残し、帰りにミッドウェイにいたアメリカ軍艦を叩かずに帰投したのか。実はここにその後の日本海軍が根本的に抱える戦略的欠陥が潜んでいた。 バルチック艦隊を戦艦同士の戦闘で破った東郷平八郎提督の快挙が海軍のトラウマとなり敵の「兵器」を攻撃することには熱心だったが「兵器を再生産する装置」を軽視した。 何よりもアメリカの工業生産力を恐れた山本五十六は、この「海軍全体の誤った信念が日米戦争を悪い方向に導くであろう」と真珠湾攻撃成功に沸き立つ世間を冷ややかに見ながら友人知己に書き送っている。その後アメリカが日本の工業地帯を優先的に爆撃したが、最後まで軍はこの馬鹿げた信念に取り憑かれたまま亡ぶことになる。 戦後「嘘八百」と言われた「大本営発表」に対しても山本五十六は言っている。 「公報や報道は、絶対嘘を言っちゃならんので、嘘を言うようになったら、戦争は必ず負ける。報道部の考え方は、全然まちがっている。世論の指導とか、国民士気の振作とか、口はばったいことだよ」同 p.182 そして連合艦隊の旗艦が新鋭の戦艦大和に替わった数日後、シンガポールが陥落。山本五十六はこのタイミングで米英と講和、せめて有利な条件での休戦を求めていた。今となっては日本が泥沼の敗戦に至らぬ唯一の道だったかもしれない。 しかし緒戦の勝利に浮かれる日本政府にその様な怜悧な「国益」を考慮できる政治家も官僚(=軍人)も皆無であった。何よりも熱狂する愚かな国民がそれを赦さなかっただろう。 そして太平洋戦争で日本海軍が勝利から敗退への分水嶺となるミッドウェイ作戦の「大本営海軍部命令(大海令)」が昭和17年5月5日に出た。 アメリカ側は暗号電文の解読によってミッドウェイに向かう日本軍の行動を事前に悉く知っていたのである。これでは戦争どころかトランプ・ゲームですら勝てる道理がない。以降の日本軍敗退は敵に予め軍事行動を全て知られていたことに起因すると言っても過言ではない。しかし奢り昂ぶった戦争指導者、軍人達は自分たちの暗号電信が全て敵に読まれていることを疑わなかったのである。そもそも「情報戦」という考えを軍人達は軽視した。明治時代の日本海海戦の思想で、彼等は昭和の戦争を戦っていたのである。そりゃ勝てるワケがあるはずもない。 そして山本五十六が撃墜されて死んだのも敵が連合艦隊司令長官の行動を事前に知っていたからである。 戦記で知られている通り連戦連勝の日本海軍は11隻の戦艦(アメリカ海軍はゼロ)、23隻の巡洋艦(同8隻)、8隻の空母(同3隻)で当時は性能で遥かに劣ったアメリカ海軍に完敗した。そしてこの時から「大本営発表」の嘘が始まる。開戦から僅か半年で海軍は制式空母4隻と熟練のパイロット達を失ったのである。 真珠湾攻撃の際に「わざわざ取り残した軍事工場」が珊瑚海海戦で傷ついた空母ヨークタウンを突貫作業で修理しミッドウェイに参戦していたのだ。一方、同じ海戦で同程度の損害を受けた日本の空母翔鶴は呉で修理に三ヶ月もかかっていた。ここにも日米の工業力の差がハッキリと出ている。山本五十六が恐れた様に日本は国力はおろか工業力でもアメリカには遠く及ばなかった。 余談だが陸軍には三式戦闘機(飛燕)というスマートな機体があった。この機体にはダイムラー・ベンツの液冷エンジンをライセンス生産(※)して搭載された。日本で唯一の液冷エンジンの戦闘機だった。しかし当時日本の工業生産技術ではこの液冷エンジンを製造することが難しく、さらに陸軍がオリジナルで使用されていた金属が入手困難で代替金属で作らせたりしたために、本来の性能を出すことができないまま”故障”の代名詞と言われる様な戦闘機になってしまった。戦争末期にはエンジンの潤滑油が「ヒマシ油」だったのだから、これで最新鋭のアメリカ軍機と戦えというのは無理があり過ぎる。 ※何と陸軍と海軍が別々に50万円を出してライセンスを買った。ヒットラーは日本軍として買えば半分の50万円で済んだのに、と嗤ったそうだ。50万円は現在の価値に換算すれば10億円近いのだ。 その後は山本五十六連合艦隊司令長官が暗号電報を解読し待ち伏せをしたアメリカ軍機にソロモン諸島ブーゲンビル島上空で攻撃され戦死、撃墜され、国葬が行われるまでが書かれている。 今回は2008年に改版57刷の新潮文庫版で読んだ。昭和52年(1977年)12月に書かれた著者の作品後記が良かった。 そもそもは雑誌のノンフィクション連載として2.26事件を新潮社から提案された著者が「陸軍のことは分からない(実は嫌い)、2.26事件の青年将校たちに共感も同情ももっていない」と断った口が滑って元海軍士官だった阿川さんが「山本五十六」を書くはめになったという。 昭和40年(1965年)、今から50年前に単行本として刊行され、雑誌休刊で連載を終わらせるために書き急いだ最後の方を新たな資料や情報で書き直したものが昭和44年(1969年)に出ている。この間山本五十六元帥の遺族から名誉毀損で訴えられたり様々なことがあったと記されている。昭和44年の単行本を文庫化したものが昭和48年(1973年)に刊行され、今回はそれが改版されたものを読んだ。 著者の阿川弘之さんも今年(2015年)の8月に94歳で鬼籍に入られた。合掌。 山本五十六についてこれまでに読んで参考になったものをあげておく。 1992.12.20 海軍参謀 吉田俊雄 文春文庫 2003.10.23 最後の海軍大将 井上成美 宮野澄 文藝春秋 2003.11.23 井上成美 阿川弘之 新潮文庫 2003.11.28 米内光政 阿川弘之 新潮文庫 2003.12.13 山本五十六と米内光政 高木惣吉 光人社 2012.12.28 山本五十六 半藤一利 平凡社ライブラリー
by duchampped
| 2015-11-09 22:47
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