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そもそも「日本の心」などというお題目を唱えること自体が怪しい。多くの場合、明治政府が大衆統合の為に江戸末期の国学から創作した国家神道やその駆動装置である靖国神社を無闇に有り難がることが含意されている。その証左にこの本に出て来る大御所「演歌」作曲家の船村徹は極右団体日本会議のメンバーであり、主催する靖国神社チャイティーコンサートは「演歌巡礼ー日本の心を歌う」というタイトルなのだ。 そーいう意味で、アタシは彼等の称える反知性主義的な「日本の心」を共有しない。その「日本の心」には新古今集や俳諧の美意識が全く含まれていないからだ。三島由紀夫が生きていたらその「日本の心」を大嗤いして、軽蔑するだろう。おそらくがミシマが最も忌み嫌った「反知性主義的情念」なのだ。 音楽の聴き方というのはひじょうに個人差がある。また音楽を聴くには何らかの装置が必要だ。その装置の歴史にも音楽消費の形態は左右される。 印象派がチューブに入った絵の具によって誕生した様に、再生装置による音楽消費形態の変遷も重要なポイントだろう。夜の盛り場、有線放送という消費形態にアタシは無縁だが、これも大きな市場を作った時代があったのだ。 メディア自体の変化も大きな影響を与えた。かつてはアナログ・レコードで聴いていたものがCD化される際に(録音時間がLP48分に対しCDは74分)ボーナス・トラックが付加されていることや、デジタル・リミックスで多くの場合は音質が向上していることなどが理由でアタシはCDを買う。 とにかくアナログ・レコード再生には振動が大敵で、カセット・テープにダビングした音源をカーステレオやウォークマンで聴く時代がCDの登場する80年代半ばまで15年程続いたのだ。データがデジタルで保存される様になって(PCM変換)、音楽の消費形態が凄まじく変化した。 拙宅にはロックとジャズとクラッシックで3000枚以上のCDがあるが、それでも同世代で全く内容の異なる3000枚を集めることは全く容易だ。つまりウチには、ビートルズは青盤・赤盤しかなく、ポリスもU2もエルビス・コステロもキッスもない。ジャズはマイルスとその一派(コルトレーン以外はピアニスト)や女性ヴォーカルしかない。クラッシックはバッハとモーツァルトとハイドンとブルックナー、マーラー、新ウィーン派くらいしか聴かない。しかし、よしんばCDが10000枚あってもパッケージ化された音楽全体から見れば微々たるものだ。とは言え現在手持ちのCDを一通り全て聴くだけで一睡もせずに150日ほどかかる。何とも馬鹿馬鹿しい話だ。 そもそもアタシが中学生の1969年(昭和44年)、LPレコードは1枚2000円、今の貨幣価値にすれば30000円近くしたのだ。その後、円高にもなりレコードは相対的に安くなる。当初は高価だったCDも安くなって輸入盤は2000円程度だ。「大人買い」をした結果が3000枚という次第。ジャケットが気に入ったアナログ盤も100枚程度は残してある。亡くなった義父はクラッシックLPのコレクターだったので1000枚以上はあるだろう。義父から聞いた話では、その昔アナログLP は月給の半分くらいしていたというから、昨今の中古アナログ盤の安さに驚喜していたことも頷ける。 文化資本という言い方もあるが音楽は巨大な産業なのだ。黎明期のロック・ミュージックがビッグ・ビジネスとなってゆく途上で”産業ロック”という蔑称が使われた時代もあった。自己嘲弄的な”モンキーズ”というバンド名は正に”ビートルズ”を産業としてコピーしたものだった。 とにかく、聴いたことのない音楽がこの本にはたくさん出てくる。 ”スナッキーで踊ろう”(海道はじめ/1968年/昭和43年)は掲載されているジャケットがシュール過ぎてドン引きした。思わずyoutubeで聴いてみて、更にぶっ飛んだ。正にグループサウンズ・ブームの真っ最中、それまでのレコード会社専属の歌手・作詞家・作曲家の時代から、フリーランスの歌手・作詞家・作曲家が洋楽レーベルからヒットを飛ばす時代に換わるタイミングで、旧来のレコード会社専属の大作家「船村徹(冒頭に書いた日本会議の先生、「別れの一本杉/1955」「王将/1961」の作曲家)」が民謡歌手(実は船村氏の内弟子で運転手を務めていた人物)を起用してエレキ・ギターをメインにしたサイケデリックなサウンドを狙って作ったものだ。何と作曲家本人がアレンジもやってる。しかも実はプリマハムの新商品”スナッキー”のステマ的なプロモーションとして企画されたという斬新さなのだ。 企画書の段階では凄かったと思うが、残念ながら出来上がったサウンドが剰りにも「垢抜けない」。歌手自身が民謡歌手だからその歌唱がエレキ・サウンドとは「手術台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」なのだ。マルドロール。 当時、洋楽はSteppenwolfの”born to be wild(映画”イージーライダー”で使われて大ヒット)”が流行っていた。ちなみにアタシが人生で最初に買ったレコード(シングル)は”born to be wild”だった。 あり得ない話だが、船村徹がこれらの音楽を真摯に聴いていたら”スナッキー”は全く違った作品になっていただろう。しかしボブ・ディランがメッセージを歌っていた時代に オオ…‥…‥…‥スナッキー ウウ…‥…‥…‥スナッキー 燃えろ 若さだ 飛び上がれ かわいいひざを のぞかせて 背中あわせて 踊ろうよ オオ…‥…‥…‥スナッキー ウウ…‥…‥…‥スナッキー スナッキーゴーゴー ・・・この何ともイケてない歌詞。“スナッキー”が「ターゲット」にした10ー20代の”若者”からは間違いなく「聴くに堪えないカッコ悪さ」と受け取られただろう。 宣伝を企画した人たちを含めて戦前に教育を受けた世代のセンスの限界が露呈している。たぶん、育った時代が戦前か戦後ということに大きな懸隔が存在する。ここに感覚の深い断絶があり、この断絶こそが古いタイプの歌謡曲(後の演歌)を「流行」の表面から葬り去ったものなのだろう。 1968年当時は歌謡曲が全盛を迎えていた。しかし、著者によればこの頃に「時代に追従できず置いていかれる情緒」を総称して「演歌」というジャンルが「新たに」作られるのである。 この昭和43年は「明治維新100年」ということが様々な形で取り上げられ、その中で「ナツメロ=懐かしいメロディ」という新しいジャンルも作られた。登場した時代には軽佻浮薄なモダン文化だった最初期「流行歌」の歌手たち、東海林太郎、淡谷のり子がテレビに登場し、最新の音楽についてゆけなくなった戦前育ちの「古いセンス」を勇気づけ、ある種自己顕彰的な「真正な日本の文化」という価値を作り出した。戦後日本の繁栄を創出した世代の自己肯定=「ナツメロ・ブーム」の誕生だ。 この「ナツメロ・ブーム」と「演歌という新しく創られた価値」が合体して「本当の日本の心」という実体のない「曖昧な価値観」が醸成されていくのだ。 考えてみれば、小学生の頃までは大晦日はNHKの紅白歌合戦を家族で観ながら正月を待つというのが楽しみだった。当時はテレビが一家に一台の時代。しかしロック・ミュージックに目覚めた中坊は歌謡曲なんてダサくて聴いていられないから、自室にこもってロックのLPレコードをかけていた。それがちょうど「演歌」が「古臭い情緒」としてメイン・ラインから外れていき、それに比例する様に「日本の心」としてクローズ・アップされ始めた時代だったのだ。 いずれにしても70年代に新しいジャンル「演歌」が「日本の心」を歌うものである、という認識が一般化した。「現代用語の基礎知識」というぶ厚い年度毎に刊行される辞書の様な書物を憶えているが、その項目に「演歌」が加わったのも70年らしい。 この時期に民族主義者川内康範(月光仮面を創作し「骨まで愛して」「恍惚のブルース」「花と蝶」など多くのヒット曲の作詞家)が「演歌は日本人の歌だ」などと発言したことが後の「日本の心を歌う演歌」というジャンルを規定したのだろう。川内は宣言している。 「1971年は、この演歌が日本の正統歌謡として新しく出発する年である。政治、経済、文化のすべてが、本当に正統にかえる時代に入る。いってみれば日本の夜明がこれから始まるのである。日本の正統演歌は、その先頭にたたなければならない」本書 p.281-282 この頃、トラック野郎(長距離トラックのドライバー)向けに8トラックの演歌テープが大量に販売された。ラジオの深夜放送が盛り上がりをみせた1970年代、トラック・ドライバーをターゲットにしたと思しきラジオの深夜放送があった。文化放送の”セイ・ヤング”の後、午前3時から始まる”走れ歌謡曲”だ。今思えば多くの「演歌」が流れていた。 管見だが、この辺りから歌謡曲やアイドルを追いかける”ツッパリ・ヤンキー地方文化”とロック・ミュージックやニュー・ミュージックを愛好する”ノンポリ都市型文化”がハッキリと別れていった様な気がする。前者が何を参照していたか知らないのだが(漫画週刊誌とか改造車を特集するクルマ雑誌?)後者は明らかにこの頃登場したタイポス雑誌”popeye””brutus”を読む層だった。村上春樹の短編にはロック・ミュージックをガンガンかけて仕事をするタクシー・ドライバーが登場する。そもそも村上春樹の作品にロック・ミュージックやポップス、クラッシックは頻繁に現れるが演歌は一切登場しない。 1970年代初頭、中学校のクラスでジミ・ヘンドリックスやクリームといったハードなロック・ミュージックを聴く者はマイノリティーだった。まだビートルズを中心としたポップ・ミュージックが幅をきかせていたのである。当時はミュージック・ライフという月刊誌からこーした音楽情報を得ていたが、なんだか「平凡」や「明星」のテイストで子どもっぽい。そこで中村とうよう氏の"ニュー・ミュージック・マガジン"へと参考書を替えた。ちょうど"はっぴいえんど"の「日本語のロック」が話題になっていて、今なら笑い話だが「日本語でロックは可能か?」なんて特集で内田裕也やミッキー・カーチス(外道のプロデューサー)が対談していた。 ウッド・ストックのお祭り騒ぎがあって、ビートルズは解散し、ジミヘンやジャニスは死んでしまうし、グランド・ファンクという産業ロックの王者が来日するし、急速にロック・ミュージックはメジャーな存在になった。EL&Pも来日し、キング・クリムゾンの日本盤も発売された。イエスも来日、ディープ・パープルもハンブル・パイもフリーも来日。日本のロックバンドも日比谷野音でしょっちゅうコンサートやっていて頭脳警察のアルバムは発禁になるし、もうシッチャカメッチャカで楽しい日々だった。 70年代以降、歌謡界はアイドル路線で占領されるが、一方の「演歌」は自嘲的な「ド演歌」路線で突出する。ぴんからトリオや殿様キングスの反動的で戯画の様な演歌世界だ。更に五木寛之から芸名をつけた五木ひろしやバスガイドから転身した八代亜紀が新たな演歌のメインラインになっていく。1981年から今も続くNHK「歌謡ホール(現コンサート)」など演歌歌手によるカラオケ大会の様な番組が「日本の歌」として現在形のヒット曲とは無関係の音楽消費を促進する。 1970年代中頃にはロッキン・オンが創刊。最初は本当に薄っぺらなミニコミ誌だった。でも写真がほとんど無くて小難しい評論が並んでいて面白かった。渋谷のラブホ街にあった編集室にも遊びに行った。 しかしその頃から急速にロック・ミュージックを聴かなくなった。厭きたということもあった。"はっぴいえんど"のメンバーたちのソロアルバムは高校生の頃から聴いていたが、彼等がバックアップするミュージシャンたちの音楽が新鮮で面白くなってきたのだ。ユーミン、シュガー・ベイブ、南佳孝、矢野顕子、吉田美奈子、桑名晴子、小坂忠など、当時は"はっぴいえんどファミリー"と呼んでいた人たちだ。 80年代アタマにはガール・フレンドがアルファ・レコードという新興レコード会社に居て(ヤナセの社長が趣味でやっていた)、Y.M.O.や細野さん教授の試聴盤(LP)を大量にもらっていた。ゲルニカ、立花ハジメ、カシオペアなどもいっぱい貰った。しかし何故かアタシはテクノが好きになれず、ピテカン・トロプスにも遊びに行かなかった。だからY.M.O.はみんな人にあげちゃって残っていない。ちょっと惜しい気もする。ピテカンに付き合わないのでガール・フレンドとも疎遠になってアタシは関西の映像制作会社に就職しちゃうのだ。1983年、もうCD時代は眼の前だった。 70年代後半、大学院で音楽美学をやっている奴と友人になってクラッシック音楽をウンザリする程、彼の理論的解説付き凄いハイエンド・ステレオ装置で聴かされた。結果的にふつーにバッハとモーツァルト、ブルックナー、マーラーが好きになって、一時期はクラッシックしか聴かない時期もあった。メシアンや新ウィーン派も好きだけど。 1990年以降、平成になってからはJ-POPと演歌(歌謡曲、昭和歌謡)はオリコン・チャートでも別立てになった。その分け方は「中高年向けJ-POP以外の音楽」「J-POP以前のスタイルを引き継ぐ音楽」というものだ。 ちょうどその頃、奉職していた制作会社がCS衛星放送でロック・ミュージック専門チャンネルを立ち上げた。何人も同僚がその制作に異動した。その関係でプロモーションの手伝いをしていたこともあって、90年代初頭のJ-POPは少し詳しいかもしれない。しかし好きじゃないのでCDは持っていない。(笑) "三宅裕司のイカすバンド天国"という深夜番組で一時的なバンド・ブームが起きたのもこの頃だった。"人間椅子"とタイアップしてCMを制作した。フライング・キッズの曲もCMに使った。 おそらく世代的な視点で言えば1960年代まではテレビという団欒の中心を核にある種の時代的情緒が共有されていたが、音楽を再生するメディアの変化、個々人が消費する娯楽スタイルの個人化が進行した結果、もはや電車で隣に坐る人間がheadphoneで何を聴いているのか知り得ず、テレビがもはや情緒と無関係のガジェットと成り果て、「流行」に無関心な膨大な趣味人が横行しているのだ。Face bookを見ても他人への関心など存在しないことがヨク解る。 いずれにしてもこの新書は情報量が豊富で特に前半の〈第一部レコード歌謡の歴史と明治・大正期の「演歌」〉〈第二部「演歌」には、様々な要素が流れ込んでいる〉は日本語という閉鎖的な環境で消費されてきた「流行歌」の歴史がとてもよく解る。 レコード歌謡ジャンルとしての「演歌」の消長自体は、「土着文化の喪失」であるとか、あまつさえ山折哲雄が嘆くような「万葉以来の情緒の衰退」といった問題では全くありません。 同 p.347 「演歌」に縁の無いアタシには面白い一冊だった。
by duchampped
| 2015-11-30 12:27
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