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過日、澁澤龍彦の後妻龍子夫人の『澁澤龍彦との日々』(白水社 2009)を読み、その際にも最初の奥さんであった矢川澄子のコトにも触れた。その時にこの『おにいちゃん』はとうに読了していたと思ったのだが記憶が曖昧なので改めて読んでみた。 龍子夫人は芸術新潮の編集者だったらしいがおよそ澁澤的な意味で文芸的では全く無い。 一方の矢川澄子はむしろ澁澤龍彦よりも文芸的だ。澁澤が仏文だったのに対し彼女は独文だった。彼女が種村季弘と共訳した『迷宮としての世界』(グスタフ・ルネ・ホッケ 美術出帆社)はアタシが大学生になった年に刊行された。懐かしい。今は岩波文庫で読むことができる。 高校生の頃からアタシはシブサワを熱心にフォローしていたが一方で種村季弘も集めた。イザラ書房の『失楽園測量地図』(1974)や『詐欺師の楽園』(学藝書林 1975)など処分しなければよかったなぁ、と今頃になって後悔している。 矢川澄子さんも大和書房から再刊された『架空の庭』や『静かな終末』(筑摩書房)を読んでいた。 余談だが、大和書房から1973年頃から刊行された『夢の王国』シリーズはほとんど揃えていた。装画もよかったのだ。矢川澄子さんの『架空の庭』の装画は中西夏之さんだった。唐十郎『ズボン』(装画:合田佐和子 以下同じ)タルホ『タルホ座流星群』(亀山巖)天退(って知らないかな天沢退次郎という詩人で宮沢賢治の研究者)の『夢でない夢』(佐伯俊男)シブサワの訳した『長靴をはいた猫』(片山健)別役実『象は死刑』(米倉斉加年)草森紳一『鳩を喰う少女』(大橋歩)中井英夫『黒鳥の囁き』(建石修志)タルホの『タルホフラグメント』(まりの・るうにい、松岡正剛夫人だよ)詩人鈴木志郎康『闇包む闇の煮凝り』(赤瀬川原平)俳人加藤郁乎の『膣内楽』は宇野亜喜良だった。今考えても執筆陣も装画家も超豪華だ。以前にまとめて処分してしまったので古書でぽつぽつ買い直そうかと思っているのだが価格が下がっていない。高いのだ。 矢川さんと澁澤龍彦の出会いから鎌倉小町の二階での同居(階下に澁澤一家)、そして北鎌倉へ、彼女は澁澤が最も澁澤らしかった時代の伴侶であり、むしろ共著者に近い。 初期の澁澤龍彦の文章は悉く矢川澄子の浄書を経て世に出ている。そして彼女はその文章に少なからぬ「手を加えて」いたという。「代訳」「代書」もした、と彼女はハッキリ書いているのである。 なによりも彼女は澁澤龍彦とはまた異なる部分で博識だった上にむしろ学究的だったのだ。 『夢の宇宙誌』ーーコスモグラフィア・ファンタスティカ。ラテン語のできない少年のために、少女が知人に語尾変化をたしかめてもらってようやくきまった副題です。 本書 p.76 『夢の宇宙誌』は1964に上梓されている。文中の少年は澁澤龍彦、少女は矢川澄子だ。 澁澤龍彦を矢川さんは澁澤一家と同様に「おにいちゃん」と呼んだ。双頭の人魚の様に親密で離れ難かった二人が何故9年の結婚生活を解消したのか、この本を読んでも分からない。しかし矢川さんが終生澁澤龍彦を愛していたことはこの本を読めばハッキリと分かる。それ以外のコトは彼女にとって些末事だったのかもしれないという程に。 貧しかった二人がくらした日々の何と美しく描かれていることか。それは彼女の手で優しいお伽噺の様に回想されている。 70年代以降、有名になった澁澤龍彦を矢川さんは語らない。彼女にとって澁澤龍彦は岩波書店の校正室で出会ってから別れるまでの無垢な暴君、無名で貧しい華奢な白皙の美少年のままなのだ。 この本で多田智満子さんが矢川さんの東女時代以来の友人と知った。 多田智満子と言えば『ヘリオガバルスあるいは戴冠せるアナーキスト』(アントナン・アルトー 白水社)で、これは澁澤訳の『超男性』(アルフレッド・ジャリ)などと共に白水社の「小説のシュルレアリスム」の一冊として刊行されたものだった。このシリーズ12冊も全部処分しちゃったなぁ。読み返す可能性があるのは、アルトー、レイモン・クノー、ジュリアン・グラックくらいか。こちらの古書も安くないのだ。ふーむ。 他にも『ハドリアヌス帝の回想』(白水社 改訳1978)『東方綺譚』(白水社 1980)など多田智満子訳で読んだものも多い。ユルスナールの『ミシマあるいは空虚のビジョン』も多田訳で読んだと思っていたが書架を見たら澁澤訳だった。まぁミシマと仲が良くてミシマが大好きだったシブサワが訳すのが当然という気もする。 学生の頃ポール・ギャリコの矢川訳がたくさん刊行されていたのを思い出す。アタシは『雪のひとひら』しか読んでいない。詩人多田智満子も読んでいない。 そう言えば、ナルシストだった澁澤龍彦の写真の多くを撮影したのも矢川澄子だった。彼女以外の人間に裸の(色々な意味で)澁澤龍彦を写すことはできなかったのだろう。 しかし、後妻の龍子夫人が強く嫉妬する理由も分かる。龍子夫人の知っている澁澤龍彦は矢川澄子が若き日にシブサワと二人で作る上げたものだったのだ。 澁澤龍彦と松山俊太郎、加藤郁乎、土方巽、唐十郎などとの出会いも当時常に澁澤と一緒だった矢川澄子で無ければ知り得ないし、書けない。 松山俊太郎や加藤郁乎などの「一派」が夜な夜な鎌倉小町の陋屋で酒宴という60年代。 雑誌”血と薔薇”もアタシの書架にはあったが、今はもう無い。 澁澤訳で読んだユイスマンスの『さかしま』(桃源社 1962)の浄書と註もやはり彼女で、ギュスターヴ・モローの”サロメ”について書かれた矢川さんの文章が印象的だった。 あらためて思う。澁澤龍彦も三島由紀夫も稲垣足穂も60年代を支配した「精神の日本的湿潤」とは無縁の乾燥しきった「幾何学的精神」を愛玩した作家達だった。その端正さへの執着ぶりが異なっているだけなのだ。 この本に収められた文章の多くが澁澤の死(1987年)の直後から90年代に書かれたものだ。そして彼女が65歳の1995年に刊行されている。40年前、25歳の矢川澄子は澁澤龍彦と初めて会ったのだ。そして1968年に離婚してから20年近く経つ1987年に澁澤龍彦は亡くなった。 この本の刊行から7年後に矢川澄子は自死する。 いずれにしても20年も前の本なのだ。あとがきで矢川さんは「これで長きにわたる離婚後遺症からようやくぬけだすことができれば」と書いている。この本でも極めて清明な矢川さんの文章だが、そこには果てしない哀しみが湛えられていた。 この文章は「離婚後遺症」の原因を述べているのだろうか。 わたしのおさない理想主義が、ひとつの愛情の終焉をまたずに性急に暴走したためであろう。 同 あとがき p.187
by duchampped
| 2016-01-29 16:37
| 逍遙的読書
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