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昨日は疲れたのでくま川鉄道に乗るのを止めて、時間があったので宿まで歩いてみた。約20分。これがすっげえ暑かった。め、人吉の町は眠った様に閑かで、幽かな音ではっぴいえんどの風街ろまんを聴いている気分だった。 球磨川。川向こうの森は小さな山、相良氏が鎌倉時代から700年近くこの地を治めた人吉城があった。 流石に朝はタクシーを呼んで駅まで行った。7時人吉駅。まずは国内で唯一現役の石造車庫を眺める。 07:18発の吉松行が入線。ディーゼル・エンジンを300PSに換装した8000番台のキハ40。ちなみにオリジナルは220PS。肥薩線をこちら側から下るのは初めてだと思う。 キハ40系は大好きなのだが、前面展望は撮影出来ないし、窓がひどく汚くて窓ガラス越に撮影は無理。 それを敢えてやるとこーなる、という見本。大畑(おこば)駅名標。 仕方が無いので他に乗客がほとんどいないのを良いコトに後方で窓を下げて撮影する事にしたが、いずれにしても写真は期待できない。 人吉から10.4kmにわたって急勾配を登ったループ線の中にスイッチ・バックの大畑駅がある。1927年(昭和2年)まではこのルートが鹿児島本線だった。貨物列車のD51は人吉から大畑まで1駅で1トンの石炭を消費したというからすごい。もちろん大量に水も使うので給水塔は必須。 大畑でスイッチ・バックの引き込み線に入って方向を変えてループに入った。左奥に大畑駅がある。一番奥が人吉から来た線、真ん中がスイッチ・バックの引き込み線。 大畑を過ぎて、さらに急峻な勾配を矢岳に向かって登ってゆく。矢岳は標高536.9m、人吉駅が109mだから、矢岳まで19.9kmを走り428mを登る。ずーっと21‰の坂を登ってくる計算になる。これは蒸気機関車には超ハードだっただろう。 矢岳駅に近づく。これは使われていない古いホームの跡か。 矢岳で7分程停車。交換はないし、理由は分からない。ディーゼルカーをクールダウンしているのだろうか。運転士さんは一服してた。 古い木造駅舎が魅力だ。これはホーム側の駅名標。 中は天井が高い。 駅舎、正面。乗客がアタシ以外には2人(初老の夫婦、地元の人の様だ)しか居ないので人の姿が写り込まない。 全体はこんな感じ。しかしサイババショット不調だなぁ。 構内に人吉市SL展示館がある。中にD51 170が静態保存されている。 これが全体。自販機の右に鉄の棒が立っている。 これ。何だか用途が分からない。形状からすると屋根を支えていた柱か? よく見ると「鐵道院」と読める。鐵道院が存在したのは1908年(明治41年)〜1920年(大正9年)だ。初代総裁は「いさぶろう・しんぺい」の元になった後藤新平だ。横で一緒に一服していた運転士さんに言うと「へー知らなかったなぁ」と熱心に見入っていた。 列車は再び走り出し、矢岳第一トンネルを抜けると日本三大車窓の一つ”矢岳超え”の眺めが広がる。が、夏は霞んで遠くが見えないね。 ほどなく真幸の駅が眼下に見えてくる。1972年豪雨で土石流が発生し57棟の住宅を押し流し、駅周辺は泥に埋まった。駅と線路は復旧されたが住民は移転してしまい駅周囲は無人地帯になった。見えているのはその時に流れ込んだ8トンの岩だ。 駅舎が見える。1911年(明治44年)に駅が開業した当時のものだ。 列車はそのままスイッチ・バックの引き込み線に直進。運転士が反対側に移動。 真幸駅に進行。 ホーム上の鐘は貨物扱い駅には常備されていた職員集合の合図に使われていた鐘が「幸せの鐘」と呼ばれて観光用に使われている。 再び運転士が移動して3分くら停車。築100年以上になる駅舎。 走り出す、この線路の先がスイッチ・バックの引き込み線、反対方向、一番右が矢岳から来た線路、真ん中は真幸駅に向かう。 08:17 吉松に到着。乗り継ぎに3分しかなくて駅を写す時間はなかった。 鶴丸駅ホーム上待合所に「吉都線全線開業100周年」の大きなポスター。吉都線の輸送密度576人/日はJR九州では最下位だ。 鶴丸の駅名標は褪せている。 先頭車はキハ147 105、220PSを360PSのディーゼル・エンジンに換装されている。 2両編成の後側はキハ40 2105。オリジナルのまま。温暖地仕様なのでデッキはない。 京町温泉。1912年(大正元年)に開業してから1990年までは「京町」だった。温泉は大正時代からというが開業時には無かったのかな。 お嬢ちゃん、歩きスマホはダメですよ。地名のえびの市もひらがな。大正元年の開業から1990年までは「加久藤」だった。1966年に近隣の飯野町・加久藤町・真幸町が合併してえびの町になって1970年にえびの市になった。 昭和4年開業の西小林。相対式2面2線だったが今は1面1線。 小林は吉都線途中駅で唯一の有人駅。 広原。原を「わら」とか「ばる」とか読む駅が多いのは九州かな。 高原。こちらは、原を「はる」と読んでいる。 神武天皇生誕の地、とある。記紀神話の話か? 09:46 都城に着いた。 駅舎正面。 10:24発 日豊線伊集院行。電化路線なので省エネ交流電車817系2両編成で鹿児島中央に向かう。消費する電力が415系の半分程度。 財部駅舎。古い駅舎が解体され2008年に改築されたが旧駅舎よりもむしろレトロな佇まいだ。 坂の途中にある北永野田。駅名標が汚れている。 JR九州783系の特急列車と交換。 霧島神宮、この辺りから急速に混んできた。 鹿児島に近づく頃には車内はこんな感じ。学生が多いのかな。 窓に寄って桜島を撮影する事も出来ない程の混雑。これは人の間から撮った。竜ヶ水の災害復旧記念碑が写っている。 鹿児島中央駅構内の店で早い昼食。豚の角煮丼。ハッキリ言って肉は硬いしタレが異様に甘くて、滅多に食事を不味いと思わないアタシが全部食べずに残した。 12:29発の川内行で13:18に川内着。肥薩おれんじ鉄道に乗り換えるが接続に65分ある。 1978年に新車のGOLF1で東京からきたことがあって、その時に川内の実家に帰っていた友人と会った。友人の案内で薩摩高城までドライブしたり食事を御馳走になった。 その友人と約40年ぶりに久闊を叙した。彼女は孫が6人いるそうだ。(笑) しかしクソ暑い。川内駅舎を撮ったが日なたに出る勇気がなかった。 JRの駅名標。 肥薩おれんじ鉄道の駅名標。元は鹿児島本線なのだけど、隈之城まで沿線高校通学の利便を考えて乗り入れている。 何とも不思議な事が行われている。肥薩おれんじ鉄道は九州新幹線と引換に地元に放棄された路線だ。(言葉は悪いが新幹線建設が地元住民の真の利益になっているとは思えない) 地元としては住民のためにコストを抑えて運営したい。JR時代の高コストな交流電車を走らせる必要は無い。そこで新たにディーゼルカーが発注された。つまり架線や電気設備は不要なのである。 同じ事が東北本線の第三セクター化された青い森鉄道やIGRいわて銀河鉄道でも起こった。JR貨物は電気機関車で長大な貨物列車を運行している。しかし経営基盤が脆弱なためJRの各旅客会社から極めて安い料金で線路や電気の設備を借りて運営されている。 第三セクター化した鉄道会社は保線に過大な負担をかけるJR貨物から必要な経費が欲しい。電気設備も応分の負担を望んだ。しかしJR貨物は新幹線なんて旅客会社が勝手にやっているコトなので負担増を受容しない。 JR九州の場合は一計を案じた。JR貨物が肥薩おれんじ鉄道の株主になったのだ。だから肥薩おれんじ鉄道としては100%不必要な電気設備を維持しなくてはならない。何とも不思議な話だ。アタシは個人的にはJR貨物が大好きなのであるが、本当の意味で住民・国民のためになっている鉄道とは何か、誰も真剣に考えていない様な気がしてならない。 相変わらず土建バンザイの政治がまかり通っている。 肥薩おれんじ鉄道の川内駅、元のJRホーム上にある。八代まで2620円の切符を買った。 八代行、HSOR-100形 1号機の101Aだ。14:23発。川内の友人も積もる話があると出水まで一緒に乗ってくる。 草道。流石に元は鹿児島本線の駅だけあってホームが長い。草道は元の地名だが1951年に川内市に編入されて消滅した。 左車窓に海が見えてきた。 川を渡ると薩摩高城だ。 列車交換。おっ!転換クロスシートの152Aだ。 薩摩高城、駅名標。白地に灰色で描かれているので上品だが視認性がやや低い。 薩摩高城、40年前に来た時は駅のすぐ横が海水浴場だったと記憶している。 海が綺麗だが逆光気味。 牛ノ浜景勝地がある牛ノ浜。観光列車おれんじ食堂は駅の外れに停まって景色を見せるそうだ。 有効長が400mもある赤瀬川信号所で1両編成同士がすれ違う。ちと寂しいね。 折口、左端島式ホームの旧2番線は架線が撤去され線路は残っているが実質的に使われていない。 出水(いずみ)で友人は新幹線で川内に戻ると言って下りた。。ここには車両基地がある。 遠く、陽炎の向こうに水戸岡デザインの「おれんじ食堂」の濃紺が揺らめいている。 乗っているHSOR-100形101Aのラッピングはファミマ。 米ノ津で列車交換。暑いので陽炎の向こうから列車がやって来る。 HSOR-100形105Aとすれ違う。ホームがずれているのが分かる。 袋。この電気設備はJR由来なのかな? 池袋、沼袋、と袋の付く駅には慣れているのだが「袋」一文字は不思議な印象を受ける。 津奈木。次の湯浦までの駅間8.7kmは肥薩おれんじ鉄道線で最長。 海の沿って走る車窓が何とも良い。 日奈久温泉。1923年(大正12年)に開業した時は「日奈久」で肥薩線の終着駅だった。JR時代にはキオスクやみどりの窓口もあり駅弁も売られていたが今は自販機が有るだけだ。 球磨川を渡ると終点の八代だ。 八代の手前、架線がある方が肥薩おれんじ鉄道、横に肥薩線の非電化線路が走る。 16:53着、150分乗った肥薩おれんじ鉄道からJR鹿児島本線に乗り換える。 4分後の16:57発なので時間があまりない。銀水行だ。 100分乗って大牟田に到着。18:37。 グランドホテルという名前だが家族経営の古い旅館の様なホテル。しかも駅からけっこう歩いた。夕食、コンビニはイヤだったので駅前のラーメン屋で”大牟田ラーメン”を食べた。 本日の移動 人吉〜吉松 59分 35.0km 吉松〜都城 86分 61.6km 都城〜鹿児島 86分 72.7km 鹿児島〜川内 52分 49.3km 川内〜八代 150分 116.9km 八代〜大牟田 100分 84.8km 533分(8時間53分)乗って 420.3kmを移動した。平均移動速度は47.3km/h。 7月25日(月)のムーンライトながらから8日間で56時間22分列車に揺られ、2793.1kmを移動した。毎日7時間ほど列車に揺られ350kmくらいを走ってきたことになる。さて残りは5日だ。 明日は北九州の未乗線・終端駅を廻って大分に行く。
by duchampped
| 2016-08-01 22:16
| 各駅的阿房列車
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