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元は12年前に出版された本だ。マイク・モラスキーさんは偶々オイラと同じ1956年に生まれている。育った環境が全く違うのだが彼が日本で住んだ場所が何カ所かアタシの住んだ場所と重複していたりする上に、手前勝手な孤独癖があって独り旅、独り居酒屋が好きという性癖が共通する、と勝手に思い込んで親近感を持っている。モラスキーさんはジャズピアノを弾くがオラは三味線だけ。(口の) 結論から言えば、モラスキー氏は「生・至上主義者」である。ジャズは演奏者同士、あるいは演奏者と場を共有する聴衆によって反復できない一回性の時間として存在する。しかし、それは原則論というかピアノ奏者でもある著者にとってのジャズだ。流石にモラスキー氏も学者らしく淡々とそれを認めている。何と言っても極東の日本でジャズはほとんどの場合レコードという複製技術を通してしか受容されてこなかったからである。 著者はヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代における芸術作品』(1935)を引いてアウラ(オーラ)の喪失について書いているが(p.328)、視覚芸術と時間を含んでしか成立しない音楽(ジャズ)との間に複製によるアウラの存立基盤は当然異なるだろう。あまり広くないジャズクラブで生演奏を聴くことと、どんなに豪華な装置を使ったとしても再生される演奏を聴くことは複製画とホンモノとの違い以上の差異がある。というか経験としては全く別種のものだ。 もはや我々のデジタルな複製品は劣化という所与の時間すら含んでいない。著者がフェティッシュの対象物としてアナログレコードの物質的な個別性を書いているが所詮は膨大なオーダーの量産品に過ぎない。 著者は”はじめに”の部分で次の言葉を引いている。もちろん、敗北宣言などではない。 Writing about music is like dancing about architecture. これが良い。 Hi Ho ! John Coltraneが死んだ1967年7月17日、アタシは11歳で小学校6年生だった。Beatlesが”Yellow Submarine”を出した年だ。 1967年/昭和42年。ツイギーというミニスカートの痩せたモデルが記憶に残っている。子供心にも彼女は中性的で魅力を全く感じさせなかったが。世間ではグループサウンズが無闇に流行っていた。小学生は放課後の掃除の時間に箒をギターの様にかき鳴らして遊んだ。「帰ってきたヨッパライ」がヒットした。ガキどもはテープレコーダーの再生スピードを倍にして自分たちの歌を聴いて喜んだものだ。怪獣映画で「ゴジラの息子」「ガメラ対ギャオス」を観た時代。 核の時代ではあったが、どこかしら無責任で明るい未来が前提にされていた。 もちろん当時はジャズなんてどこからも聞こえてこなかった。父親の買ったデラックスな蓄音機があったが専ら”ウルトラQ”のソノシートを聴いていた程度だ。 ジャズを訊き始めたのは遥か後年の話になる。 その前に怒濤のロック時代が襲来した。 1968年4月、中学生になって当時のオールナイトニッポンなどAMラジオの深夜放送を聴き始めた。それで世の中には演歌を含む歌謡曲や洋楽と呼ばれる甘ったるいポップス以外にも流通する音楽が存在することを知った。それで始めてロックミュージックを意識的に聴いたのだと思う。 中学校の同級生たちが騒いでいたBeatlesはポップスなので好きではなかった。そりゃ中坊にJohn Lennonの歌詞の深さなどわかるワケがない。 小遣いを貯めて最初に買った”LP”が”Live Cream”だった、Jimi Hendrixの”Band of Gypsys"だったかもしれない。1970年大阪万博の年だった。”Live Cream”の日本盤はジャケット内側にモロに八木誠の解説が印刷されていてガックリきた。”Band of Gypsys”の国内盤は人形写真のイギリス盤ではなくジミが写ったアメリカ盤と同じだった。当時は街の電気屋でこんなレコードを売っていた。最近”Live Cream”はリミックス盤がでている。 こんな話を始めるとマイク・モラスキーさんの本の話に辿り着くまで延々と時間がかかって自他共に迷惑するので端折る。 ジャズを意識的に聴き始めたのは高校生になって倉橋由美子さんの『暗い旅』という小説をその小説が始まる吉祥寺の”funky”というジャズ喫茶で読んでいた頃だ。当時の”funky"は今の吉祥寺パルコがある辺り、日活の映画館が隣にあったかな。その後引っ越して創業者が亡くなった後レストランになった。 しかし、当時は、暗い眼をしたにーちゃん達が半ば眼を閉じてコルトレーンに聞き入る姿が気色悪かった。おまけに無闇に観念論的なジャズ談義に耽っているのが肌に合わなかったので専らジャズボーカルをJBLパラゴンから流していた2階の「マッキンルーム」で読書をしていた。 むしろアタシはロック小僧だったので吉祥寺駅の南側にあった”be-bop“(1970年開店/1980年LEMON DROPというケーキ屋になった)というジャズみたいな名前のロック喫茶の地下に入り浸っていた。最初の頃はパイオニアの3ウェイスピーカーが4つ奇妙な形で壁に填め込まれていた。この姿は宮谷一彦さんの『性紀末伏魔考』の中に描かれていて懐かしい。その後アルテックのA-7になった。コーヒー一杯で3時間の時間制だったので後から来て先に帰る知り合いと時間が書かれた伝票を交換するのが基本。大音響ロックを聴きながら暗い場所で読書した。よくあんな暗いところで文庫本の活字が読めたもんだなぁ。 当時のウェイトレスが「トマト」という渾名だった。その後、北口にオープンした「赤毛とそばかす」「out-back」にも行っていた。 ちなみに「funky」「be-bop」に始まり「赤毛とそばかす」「out-back」それから「scratch」「西洋乞食」「SOMETIME」「Hum & Egg club」それに渋谷の「alcohall」とアタシが通った店は全て故野口伊織氏のお店だ。そーいう意味では氏の趣味がアタシには擦り込まれている。 Chick Coreaが1972年に発表した”Return to Forever”と”Light as a Feather"は輸入盤で買ってかなり聴き込んだ。「ジャズだ」という意識はほとんどなかったけどドラムの叩き方が根本的に違うことは意識した。それに今聴いてもStanley Clarkeのベースはすげえ。 原宿の竹下通りにメロディハウスという輸入盤屋があった。プログレは東中野の中野レコード。ドイツ盤が揃っていた。有名な新宿レコードにもよく行った。経営者夫婦が珍しいイギリス盤を売りつけてた。まだタワーレコードなんてなかったのだ。店舗数の多かった新星堂には輸入盤はなかった。 友人と一緒に John McLaughlinの来日公演を渋谷公会堂で観たのは1973年9月だった。 一方、アタシはFrank Zappaが大好きで1969年の”Hot Rats"にノックアウトされていたので、このアルバムでヴァイオリンを弾きまくるフランス人Jean-Luc Pontyのアルバムもフォローした。 高校2年生の夏休み頃からはハードな輸入ロック・ミュージックをあまり聴かなくなった。ロック・ミュージックが巨大な産業に育っていたのだ。むしろイギリスやドイツのプログレを聴いていた。Soft Machineの4thがとても気に入ってジャズ風の音楽に慣れていった。アメリカのジャズよりもイギリスのフリーなジャズに親しんだというのも倒錯的だけど。 日比谷の野音に和製ロック・ミュージックを聴きに行く様になったのもこの頃だ。”はっぴいえんど”が好きだったが”頭脳警察”"Sadistic Mika Band””村八分””外道”"四人囃子"などだ。やっぱりライブで聴いた音楽はレコードとは温度が違った。 ”荒井由実”がデビューしたのが高3の11月、"シュガーベイブ"吉田美奈子、南佳孝、小坂忠、日本語の音楽を専ら聴いていた。この頃からKeith Jarrettもよく聴く様になった。 高校生の頃はジャズ喫茶などに入り浸っていたが大学生になるとそんなヒマが無くなってきた。読書と女子とのお付き合いで多忙だったのだ。大学2年から4年までの3年間は山手線駒込の六義園を見下ろすマンションでガールフレンドと暮らしていた。アタシは専ら家事を担当していてこの頃から料理が趣味になった。キッチンのBGMはガールフレンドがFrank Zappaをかけるとイヤがるのでyumingとか吉田美奈子、矢野顕子だった。耳にタコができる程聴いた。おかげで“はっぴいえんど”の流れをくむ一派の音に慣れ親しんだ。そして演奏のクオリティーの高さにも。 しかしビバップというか1950年代からのモダンジャズを聴くことは全くなかった。大学5年生になって実家に戻って卒論を書いていた頃は、所謂クロスオーヴァーというかフュージョンミュージック全盛の時代だった。吉祥寺「scratch」で酒を吞んで閉店時にかかるThe Crusadersの”scratch”(1974)を何十回聴いたことだろうか。 往時渺茫。 しかし、マイク・モラスキー氏が書いている様に、1979年にウォークマンが登場したことによって音楽の消費スタイルが決定的に変わった。 懐かしいな、ウォークマンの修辞学。エピステーメー叢書。朝日出版。 もはやジャズ喫茶の高級オーディオは不要になった。それなりのクオリティーの音楽再生装置を個人が気軽に持ち運び、大音量で好きな音楽を好きな時に聴くことが可能になったのだ。最近は物質としてのレコードやCDすら不要になった。信号をネットで消費する時代になった。 と言ふ理由で。50年代のモダン・ジャズを聴く様になったのは実はかなり最近だ。 最初はMarcus Millerが好きで彼と大好きなTommy LiPumaがプロデュースしたMiles Davisの”TUTU"(1986)を聴いたことが契機になった。 それでエレクトリックになって以降のMiles、”Bitches Brew”(1969)から”Doo Bop”(1992)までの全てのCDを買い込んで聴きまくった。特に日本でのライブ”Agharta”(1975)と”Pangaea”(1976)が気に入った。"The Complete Miles Davis at Montreux”の20枚組も好きだ。 そーこーするウチに亡くなった中山康樹氏のマイルス本を読んでしまって、一気に”Blue Haze”(1953)から”Kind of Blue”(1959)を経て"1969 MILES”(1969)までCDを買い込んで、50歳くらいからもう怒濤の様にマイルスんとこ出身のピアニスト、Bill Evans、Red Garland、Wynton Kellyを揃え、もちろんJohn Coltraneも揃え、50年代以降のモダンジャズをSonny Clark、Sonny Stitt、Sonny Rollins、Thelonious Monk、とにかくジャズCDが10年間で1000枚以上になって聴くヒマがない。Milesだけで120枚以上ある。もちろんロック・ミュージックとクラッシックも3000枚位あって、可処分時間は有限なのに無駄だ。しかも大半がMacintoshかiPhoneに入って居るのでCDを探してかけるコトが面倒くさい。 こうなると新しい音楽はまず聴かなくなってしまう。自分自身の加齢によって新しいモノへの興味が減ってきたこともあるだろうが。定期的にライブハウスには行くが、そこでは古い友人が80年代的なフュージョンミュージックを演奏している。 全然マイク・モラスキー氏の本の話にならないので困るなぁ。 この本は、何と言うか、スイングジャズとは無縁、齢50を過ぎてからモダンジャズを聴き始めたアタシにはひたすら知らないことが丁寧に解説されているので面白くて勉強になった。 「第3章占領文学としてのジャズ小説」は興味を持ったことも読んだこともない五木寛之というかつての流行作家の初期作品について書かれている。小説作品の批評とは別に、黒人でも白人でも無い日本人特有のジャズ受容について、モラスキーさんのアメリカ人学者ならではという卓見が多く、こちらは新鮮に感じた。「第5章ジャズ喫茶解剖学」も1970年代半ばからジャズ喫茶行く様にはなったが、特に熱心に通ったワケでもジャズを集中的に聴き込んだワケでもないアタシには、歴史の一齣という感じで面白い。クラッシックをかける名曲喫茶なんてのもあったなぁ、なんて思い出したりした。 ところが「第4章挑発するジャズ・観念としてのジャズーー1969ー70年代のジャズ文化論(1)」と「第6章破壊から創造への模索ーー1969ー70年代のジャズ文化論(2)」が少し異質で文体も違う様な印象を受けた。 就中「風景の響き~アンダーグラウンド映画とフリージャズ」から「若松孝二とその周辺/『十三人連続暴行魔』」(p.276~p.303)はジャズと言うよりも日本の60年代70年代、、暑苦しく「自分たちを問い直す」という焦燥感に満ちた文化状況にフォーカスし過ぎている様に感じた。確かにフリージャズがある種のアヴァンギャルドな映画や現代詩の朗読と共にあったことはわかるし、短期間とは言えジャズが創作者との関係を作り出した時代だったのだとは思う。 たぶんアタシが生まれたのが少し遅かったのだろう。東大安田講堂攻防戦はアタシが中学1年生の冬休み頃のことだったのだ。革命も情念も既にアタシが高校生になった頃には半ば古臭いジョーク扱いだった。 むしろミニマルで端正なデザインのマーケティングが全面的に勝利していた。タイポグラフィーを使った雑誌、ananやpopeyeの時代が始まろうとしていたのだ。 そーいうワケで映画監督若松孝二氏の作品を見たこともなかった。そもそもアタシは暴力シーンが嫌いだ。さらにレイプシーンなんて大嫌いだからそんな映画をわざわざ見るワケがない。フリージャズの暴力性云々とか当時の制作者たちに言われても困る。 暴力はむしろ怜悧で巨大な産業の側に、あったのだ。 ピンク映画には高校時代オールナイト館をホテル代わりにして一夜を過ごした時にイヤになる程「3本立てパートカラー」を繰り返し観て、そのクオリティーの低さに音をあげた。以来観たことがないのだ。退屈なATGに匹敵する時間の無駄だ。 寺山修司的抒情は好きだが、アタシは60~70年代的な情念とかドロドロと粘液質の美意識が生理的にダメなのだ。おそらく世代的なものだろう、もっとポップでカジュアルな、温度も湿度もないリバタリアニズムに惹かれる。美意識としてはミニマルな新古典主義者なのである。中身はさておき、ECMのジャケットの凡庸で清潔な佇まいが好きなのである。 最終章「第7章 過去の音楽へ」でマイク・モラスキー氏が書いている様な最新の(10年以上前の)音楽消費スタイルにアタシは馴染めない。もはやマーケティング的範疇でも「老人」だ。 アタシはおそらくジャズミュージックを含めて大量にストックされた音楽を日常的かつ反復的に聴くだろう。そして、もはや、新しい消費も創造もそこには皆無である。 改めてマイク・モラスキーさんの『戦後日本のジャズ文化』は不勉強なアタシには実に丁寧な解説書だった。確かに4章と6章には違和を感じたが、それはモラスキーさんの職業的誠実さというか、個人の好悪を越えた公正さの顕れなのだろうとも思う。 同世代の諸氏には十分楽しめる内容だが、むしろ、戦後という言葉と無縁の若い人が読んだら面白い歴史案内ではないかと思う。今和次郎の著書を不思議そうに眺める様に。 アタシが生まれた1956年に経済白書は、もはや戦後ではない、と啖呵を切ったのだよ。
by duchampped
| 2017-04-05 23:16
| 逍遙的読書
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