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『細野晴臣インタビューthe endless talking』細野晴臣 北中正和編 平凡社ライブラリー 2005.09.09 を読む 北中正和という名前が懐かしい。 中学生時代は“Music Life”(月刊誌)のロバート・プラントのグラビアを下敷きに入れていたけど、高校生になったら“ニューミュージックマガジン”(月刊誌 現“ミュージックマガジン”)を毎月読む様になった。 中村とうよう氏の意味不明な評論迷路よりも「ROCKバンザイ」的な北中正和さんのストレートな文章が好きだった。 高3には“ROCKIN’ ON”に投稿してたけど。やっぱ70年代、ROCK論は、岩谷宏でしょ。(笑) 閑話休題。 まず アタシが“はっぴいえんど”を初めて聴いたのが1972年(昭和47年)高校2年生になる直前の春休み、大阪の従兄弟の部屋だった。 従兄弟は、一学年上。彼が半分手作りのステレオセットで聴かせてくれたのがセカンドアルバム“風街ろまん”だった。 オープニング“抱きしめたい”のイントロ、ベースラインを聴いた瞬間に「これは、なんじゃ? 凄えセンスだ」。それに国内盤で聴いたことの無い楽器の音のリアルさにも腰を抜かした。 今聴いても、同じ1971年に録音された国内盤との音質の違いは歴然。この点を指摘する人が意外に少ないと思うけど。 とにかく世田谷の実家に帰ると速攻で“風街ろまん”を購入。カセットテープに録音してロック好きの仲間に配った。 音質が良いという点には、賛成してくれたけど、歌詞、曲の評価は、ばらけた。意外だったのは「歌詞がふざけている」と不評だったコト。センスが悪いと、冗談が分からないんだ・・・暗澹とした。 ちなみに このアナログ盤 半世紀以上 手元にあるよ。(笑) 高校2年の夏(1972年)は、“風街ろまん”と発売されたばかりで即発禁になった“頭脳警察セカンド”ばかり聴いて過ごした。 銃をとれ! 今でも酔っぱらうと“さようなら世界夫人”を歌う。C E F C Am G(笑) ただし 1971~2年って その後の音楽界を変えてしまった凄いアルバムがイッパイ出たのよ。 T.REXの“Electric Warrior”歌詞を丁寧に聴くと「ROCK」の終焉が分かる。Black Sabbathの“Master of Reality”はヘヴィメタルという産業を作り出した。 Sly & The Family Stoneの“There's a Riot Goin' On”、Yesの“Fragile”これもチャートを革命的に変えた。 何と言ってもChick Coreaの“Return to Forever”、JAZZに留まらず音楽全体に与えた影響がデカかった。Deep Purpleの“MACHINE HEAD”ハードロックの定型化。以下同じ。 Miles Davisの“On The Corner”、JAZZというジャンルへの帝王の反発を象徴していた。ミニマルなファンクという流行の始まり。 閑話休題。 でもね、当時の高校生にLPレコードの2800円は、高かった。 頭脳警察が次々にアルバムを発表するし、大瀧詠一さんもソロアルバムを発表。 “ゆでめん”をやっと買ったのは、“はっぴいえんど”が解散した後の1973年正月だった。 2月にはアルバム“HAPPY END”も出た。 5月には細野氏の最初のソロアルバム“HOSONO HOUSE”がリリースされて、高校3年1973年の夏は“HAPPY END”“大瀧詠一”と“HOSONO HOUSE”ばかり聴いていた。 しかも日比谷野音では「100円ROCKコンサート」なんかがあって、京都からは村八分、West Road Blues Bandが来てた。頭脳警察やフラトラ(Flower Travellin' Band)、ファーラウト(Far Out)、陳信輝、安全バンド、めんたんぴん、宿屋の飯盛だっけ? 成毛滋さんは、ドラムつのだひろとベースの高中正義を従えて不思議なロック・ミュージックをやっていた。 日本の初期ROCKバンドが大騒ぎしていて、楽しかったね。野音にはよく行ってた。音は小さかったけど(笑) まだS.M.B.(Sadistic Mika Band)とか四人囃子がデビューする前。 ミカバンドが強力な“Gingham”のP.A.を持って来てROCKコンサートの音が馬鹿デカくなって音質も急激に良くなった。加藤和彦は、お金持ちだったから。(笑) しかし、当時アタシは、加藤和彦さんをオッサンだと思っていた。でも彼は、1947年生まれだから、アタシの9歳年上に過ぎなかった。ミカバンドの頃、加藤和彦さんは、26~8歳だったのよ。信じられる? 1974年、大学1年の夏休みは、郡山ワンステップ・フェスでヨーコ・オノのパンツ拾ったり(笑)S.M.B.(Sadistic Mika Band)、四人囃子、外道で盛り上がって、キャロルに「帰れコール」したねぇ(笑) アタシは、ふつうにROCK小僧だった。だからツッパリ・ヤンキーの下品さ、露骨にアタマ悪そ~なトコ、保守反動が、大嫌いだった。 頭脳警察の歌詞、聴けよ、って感じ。(笑) 閑話休題。
by duchampped
| 2025-09-01 14:43
| straight jazz
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