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![]() 風景は劇的に変化しない。渋谷駅前の新しい商業施設と私鉄駅の地下化とメトロとの接続の様な大規模プロジェクトが数年おきに反復されることはない。東京オリンピックを迎えた昭和30年代後半の東京は例外的なのだ。 つまり我々の心象をある部分でスタビライズしている風景は比較的安定的に極めてゆっくりと変化する。しかも世代というか毎年小学生になる子供達から大学や大学院を修了する青年たちの集団もその姿を劇的に変えることはない。 つまり世の中の変化はボンヤリしていると気付かない。そしてボンヤリしていること、迂闊であることを意識させないことが為政者には重要な事になる。 むしろ自分たちこそが積極的な愛国者で国益に敏感だとマジョリティーにゆったりと錯覚させること。安んじて自分たちの不利益を受容し、且つ為政者を批判する者達を「反日」と呼んで蔑視することで自分たちの相対的な優位を錯視すること。 安倍政権は教科書検定の基準見直しを進めている。「美しい日本」という空虚な言辞には具体的には「好戦的な軍隊を使役したい」という安倍首相個人の欲望しか感じられないが。「自虐史観」という言葉に踊らされてはいけない。状況的に日本は戦争に追い込まれたのだ、という風に考えることは個人の自由だ。 しかし中国を侵略し傀儡政権を作ったこと、周辺国を捲き込みながらアジアを食い物にする列強国と戦争を行い周辺国に多大な犠牲を強いた歴史は改変できない。 ただし韓国朝鮮の併合については微妙だ。日本がもし併合していなければという仮定は無意味だが、当時の近代国家の体を為していなかった李朝朝鮮はほぼ間違いなく帝政ロシアに支配されることになっただろう。今なお韓国朝鮮人民が否定する「日本による教育や社会インフラの整備」どころかロシア革命という混乱を経て現在の韓国朝鮮は「更に日本による社会的なインフラを欠いた北朝鮮」になっていた可能性が高い。 間違った歴史観の修正は必要だが、この程度の見通しもないまま被害者意識だけを募らせても仕方がないとは思わないのだろうか? とにかく、その戦争を準備したのが明治維新という「不安定な下克上クーデター」の政権構造にあったということ、維新政府は不安定な国家の運営を国家神道と絶対的天皇という国家推進装置によってどうにか乗りきったのだ。 そのプロセスで幸か不幸か西洋列強と対峙するというポジションをアジア諸国の中で日本のみが取り得た。その結果、”迂闊でモノを考えない逆上せた国民が” 国家推進装置を暴走させ、アメリカ・西洋列強との戦争に至った、という歴史を反省する事が何故「自虐史観」なのか? 「日本国が加害者であること」を反省することは「自虐的」ではない。この怜悧な自戒の上に立って初めて東京大空襲や原爆投下の「犯罪性」を世界に向かって述べることができるのだ。 何故、逆上せた国民が、階級的利益に反する軍備増強を支持し、山本五十六をして「勝ち目が無い」と思わせた不利な戦争に突き進んだのか?この「愚行」を繰り返さないことが国民にとって最も重要なことではないのか? 「美しい国」などという空疎な言辞はどうでも良いのだ。 しかし、戦後70年間営々と続けられてきたこの歩に現政権は棹さして、戦前の「国家推進装置」に恋着している。しかも国民の多くがこの愚行を支持している。 この明らかに奇矯な事態を可能にしているのが社会全体を覆う反知性主義だ。 そしてそれがこの本の要諦だ。 下流、B層、マイルド・ヤンキーと言った経済的な面と必ずしも全面的にシンクロしない階層化が指摘されてはいるが、それだけで現政権の右傾化と大衆蔑視政治が広範に支持される理由を説明できるわけではない。 もちろんサイレント・マジョリティーによる現政権への「軽信・盲信」は計算された政治的マーケティングの成果だろう。それこそが現行の自民党政治(アメリカ型グローバリズムへの盲信)の誘導する「自らの階級的利益に反するコトが理解出来ない人々を支持層にする」という見事な戦略なのだ。 かつて日中事変、満州国建国、そして太平洋戦争開戦を熱狂的に支持したのが正にこの「自らの階級的利益に反するコトが理解出来ない”迂闊な”人々」だった事を忘れてはならない。 だから敗戦後、「騙されたと思った”迂闊な”人々」は旧制高校的な知性への憧憬を抱き読書に駆り立てられた。明治維新政府が急遽用意した国家神道や天皇への絶対的帰依は政府のホンの一部のエリートたちが大衆を馴致するために作り出した虚構の道具であることが明らかになったからだ。 しかし高度成長が収束し階層の固定化が進行する中で彼等は学習しても無駄だと(為政者に都合よく)勝手に悟り、ひたすら享楽的で非生産的なゲームに興じることに安んじる様に変化した。もちろんそこに批判的な精神は微塵も発生しない。 西欧列強に対抗できた「国家推進装置」(近代天皇制と国家神道)に対して右翼的な執着をしたところで、結果的に日本人は白人と異なる価値観で世界を渡ってはゆけない。 所詮はクジラを採るなとかイルカの追い込み漁はやめろとか難癖をつけられるだけなのだ。 困ったことに反知性主義者たちはこの本を決して読まない。 ▲
by duchampped
| 2015-05-27 10:35
| 逍遙的読書
先日『女のいない男たち』を読んで、文体が初期の風合いになっていてけっこう愉しめたので、長編も読んでみた。というかこの本は図書館で相変わらず予約の長い行列が続いている。だからアマゾンで格安に入手した。 何と云えば良いのか分からない。春樹さんの比喩はかつての輝きを少しづつ取り戻しつつあるかの様だし、主人公は内的独白の語彙がやや異なるだけで『風の歌』以来の孤独で静かな時間を丹念に語る。 多崎つくるは牧歌的であると同時に不自然な、4人の友人たちとの「乱れなく調和する共同体」に帰属し幸福だった。しかし4人から一切の「理由」を知らされず「切断」される。帰属する共同体を失い、彼は実はここで一度死んでいるのだ。深く損なわれた彼は故郷を持たないゾンビとして再び生きて行く。すっかり風貌が変化し、駅という「通り過ぎるだけの場所」を作りながら。 やはりこの物語でも求められているのは、愛では無く「理由」だ。 謎めいた筋書きだがそれは「理由」という具体的だが無意味な感情の縺れを延々と追い続ける挙措に付随せざるを得ないものなのだ。絞殺された白雪姫自身に秘密はなかったのかもしれない。多崎つくるが激しく欲情するのは夢の中だけなのだ。 存在理由(レゾンデートル)なんて言葉を思い出すのは久しぶりだったけれど、それ以外にこのシンプルな小説を顕す言葉が見つからない。 フランツ・リストの巡礼の年の第一年スイスの8曲目が何度もでてくる。リストが当時の流行作家セナンクールの小説を援用した曲だ。「自分の唯一の死に場所」である故郷への想いがテーマ。 しかし、多崎つくるには故郷がない。20歳の時の「死」を経て彼は故郷を持つ普通の人間としての存在を喪失した。これは失われ損なわれた故郷への望郷という奇妙な仕掛けなのだろうか。 リストもまた終生故郷ハンガリーの言葉を使わず(使えず)、ドイツ語とフランス語で暮らした。リストの望郷の対象がハンガリーであったことは確かだが。 沙羅という恋人に多崎つくるはゾンビから人間に戻るように要請される。これは他の春樹作品にも多く見られる「自己回復」の主題だ。ほとんどの主人公たちはその為の「理由」を求めて彷徨う。象徴的なキュウリをポリポリ囓ったりしながら。 巡礼の年? それはリストの生涯続けられた作曲活動の痕跡だ。 多崎つくるは自己回復出来るのか。物語は比較的ポジティブな方向を指し示して閉じられる。そこは『ノルゥエイの森』で主人公が最後に電話をかける前の場所だ。 ▲
by duchampped
| 2015-05-25 15:46
| 逍遙的読書
内田樹さんと中田考さんというイスラーム法学者の対談。中田氏は東大のイスラム学科一期生で4年生になる春にイスラーム教徒になり、東大卒業後エジプト・カイロ大学に留学し哲学博士号を取得、サウジアラビア日本大使館に勤めた後帰国、山口大学を経て同志社大学神学部の教授を勤めたという御仁。昨年末イスラム国に融解された日本人を巡る醜聞の際に日本政府からは犯罪者扱いされていた。 この対談でアタシのイスラームに対する考え方が変わった。 まぁ、内田樹氏の主張はアメリカの推し進めるグローバリズム(と言う名の独占資本優先の拝金主義)に対して国民国家共同体による弱者保護という最近ずーっと内田さんが言っていることの繰り返しなので特に新鮮さはない。 むしろアタシは初めて中田さんという方の言葉を読んだのだがこれが新鮮だった。確かにイスラームの聖典クルアーン(コーラン)はアラビア語で書かれたモノだけが正統であって、全てのイスラームはアラブ語で聖なる祈りを捧げる。 アタシはトルコ共和国に何度も行っているが、日の出から日没までモスクから大きな声で聞こえてくるアザーン(お祈りの時間ですよ〜というお知らせ)はアラビア語なので友人(ムスリムのトルコ人)に訊いたら「実はアラビア語が出来ないのでボンヤリとしか意味は分からない」と言ってた。クルアーンの言葉も子供の頃から暗記したがアラビア語は呪文の様に覚えているだけらしい。 同様にユダヤ教もヘブライ語聖書のみが正典である。イスラエルで使われている現行のヘブライ語はこの古典ヘブライ語から再生された言語なのだ。 ユダヤ教から生まれた初期キリスト教はおそらくアラム語で弟子たちと話していたナザレのイエスの言動が、イエスの死後30-40程経ってからコイネー(アレクサンダー大王の遠征で広まった共通ギリシャ語)で福音書(書かれた順番でマルコ、マタイ・ルカ(使徒行伝も同じ著者)、ヨハネ)として書かれた。しかし既に離散していたユダヤ人たちが最初期のキリスト教徒であった為に彼等の共通語(コイネー)で文書が書かれ、またイエスがメシア(ギリシア語ではクリストス)であることの証拠とされたヘブライ語聖書(旧約聖書とキリスト教徒は呼んだ)もギリシア語訳(70人訳・セプトゥアギンタ)が用いられた。 ローマ帝国で国教となったキリスト教はローマ人の言葉(ラテン語)に訳され、カトリック教会ではラテン語のみが聖典の言葉とされてきたのだ。ローマ帝国崩壊後はロマン語化した言葉しか知らない一般の信者にはラテン語は理解されず、教会を飾る宗教画は文字の読めない者たちのための聖書となったのであった。もちろんその後プロテスタントに依ってラテン語聖書は各国語に訳され流通した。 しかし、本来的にイスラームは一つの言葉(アラビア語)で同じ信仰を持っている集団だし、そもそもイスラームは信仰と生活、政治と経済が渾然一体となっているモノなので20世紀以降の国民国家という西洋列強の強いた国境とは馴染まないものなのだと中田さんは主張する。 イスラームは遊牧民から発祥したのだ。移動と交易の民なのだからアメリカ型グローバリズムが求める様な国境という格差装置に因る「国益優先主義」とは真っ向から対立する価値観なのだ。 グローバリズムとは、アメリカの「世界を単一の市場にして効率的に富を独占したい」という欲望に過ぎない。 しかしイスラームも複数の国家に別れて「国益」を掲げて争っている。同じ穴の狢状態。 中田氏の主張。国境という装置がグローバリズムを発生させる。本来的には国境という概念のないイスラームが一致団結してアメリカ的グローバリズムを粉砕するという構図は単純過ぎるが説得力はある。 国家という「法人」を遊牧民の族長たちが一族を治めるのと同じレベルでやるから現在の極端な独裁国家が出来た。そして、金満サウジアラビアが国内でイスラーム法を遵守しても近隣の貧しいムスリムを無視するのはイスラームとして間違っている。石油資源はイスラーム全体の財産だと言う。 そこで中田氏は「カリフ制の復活」を主張している。ムハンマド亡き後、イスラーム共同体の政治的後継者で、アッラーの意志であるイスラーム法を代行するのがカリフ。4代目までは共同体の総意で選ばれたが5代目は世襲、以降オスマントルコ解体されアタチュルクに依るトルコ建国まで存続した。もちろんイスラーム法に従うので民主主義や個人主義などの近代的な志向とは馴染まない。しかし、アメリカの単一市場主義拝金主義による人類全体の不幸に対する戦略としては有効である様な気もする。 少なくともアメリカ主導のグローバリズムに世界的な規模で対抗する方法は他になかなか探し難い。我々一人一人がグローバリズムという拝金主義を鼻で嗤ってしまうことも重要だが、市場構造そのものから離脱することは困難だ。 ▲
by duchampped
| 2015-05-22 17:49
| 逍遙的読書
![]() 村上春樹はデビュー以来好んで読んできた作家だ。ネズミが登場する初期の4部作はほぼ刊行直後に読み、その後も何度も繰り返し読んだ。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)もそういった作品だ。何故か分からないが定期的に読み返したくなる。 村上春樹の作品がなんで好きなのか、考えてみた。 文章の背景になっている時代、地理的な条件(アタシは関西生まれの東京育ちで、母の実家のあった西宮で多くの時間を過ごしている。東京の西側に住み『ピンボール』の舞台になったゴルフ場、野川公園は実家から徒歩20分の場所にある)などもあるが、何よりも主人公たちの「自己意識」の在り方が安心できるからだと思う。 誰もが唯識的に自己を反復的に対象化し参照することで日常を送っている。春樹作品の主人公たちの内的独白のスタイルはとても静的で安定していて非現実的に落ち着くのだ。「他人との距離のとり方」と言い換えれば表面的で分かり易いかもしれないが、何と云うか「内部での自己意識の参照時間の設定に関する意志」である様な気がする。分かり難いが説明が難しい。 ところで、アタシは失業してヨーロッパの美術館を独りでふらふら観て歩いていた時期に日本では『IQ84』(2009ー2010)が刊行された。それを帰国後に2冊読んだ。しかし、残りは読み終えていない。たぶん前述の様な意識を安定させる機能が作品から無くなってしまったからだ。 短編集も『中国行きのスロウ・ボート』(1983)は社会人になった直後に刊行されたので購入した書店も読んだ場所も記憶している。 しかし、やはり同じ理由で『東京奇譚集』(2005)は好きになれない。 そしてスゴク久しぶりに『女のいない男たち』を手にとった。 御本人も書いている様にアーネスト・ヘミングウェイに同名の短編がある。むしろ「男だけの世界」(新潮文庫所収)の方が通称かもしれないが。アタシはあまりアメリカ文学を読んでいない。ヘミングウェイも例外ではない。だからその短編は読んでいない。 たぶん、猫よりも犬の方が好きだからだ。 この短編集ではお馴染みの「自己意識の設定を冷却し慰撫する機能」が復活している。敢えて初期の古い文体で書かれているせいかもしれない。 アタシには重要なことだが、あくまで個人的な感じ方の問題だ。この点ではストーリーはあまり関係ない。 そしてこの10年ばかり作品から払底していた「古いタイプのユーモア」がいささか不器用に、しかしそれなりの上品さで復活している。携帯電話が世の中を支配する前の、Popeyeやブルータスに掲載されていた牧歌的な短編小説を読んでいるみたいで、読んでいて身体のどこかが少し暖かくなる。 「イエスタデイ」という作品は『ノルウェイの森』の自殺した友人とその恋人だった直子のパラフレーズの様だ。しかし概ね嘘をつく女たちのお話だ。恋人に隠れて男と寝る女たち。春樹作品に登場する妻たちは多くの場合「男をつくり」「出て行く」。初期の長編小説は残された「女のいない男」が主人公として「いなくなった女」の代替物を希求する物語だった様に思う。 失われ、損なわれた時間を当て所なく求めるというラブソング。 いまだに『ノルウェイの森』をラヴ・ストーリーだと言う人がいるのかもしれないが、あの作品に愛はさほど重要な要素ではない。同様に、女のいない男たちが求めているのは愛ではなく、正しい理由なのだ。 ▲
by duchampped
| 2015-05-19 00:22
| 逍遙的読書
著者は偶然だがアタシと同じ年齢の西洋美術史家。書架には彼女の著作『描かれた身体』(青土社)『屍体狩り』(白水社Uブックス)などがあるが読了していない。この本は1994年に刊行されていて20年以上経っているが、内容的には古くなっていない。 「ダンス・マカブル=死の舞踏」の画像を中心にヨーロッパの美術館、教会、修道院を訪れたエッセイだ。美術史的な記述は歴史を背景に分かり易いし見事だ。しかし文体が聊か修飾過多というのか、ブンガク的な修辞の羅列で鼻につかないでもない。 内容が内容だけに枯淡な文章で書かれた部分の方が胸に届くのだ。 14世紀に猛威をふるったペスト(黒死病)でヨーロッパ人口の30〜60%が死んだと言われる。人々は「メメント・モリ=死を思え」を眼に見える形にして教会や修道院を飾ったのである。 そして例の如く「ユダヤ人」の陰謀とされ、多くのユダヤ人が殺戮された。キリスト教徒はユダヤ教を近親憎悪しているからね。 当時、権勢の頂点を過ぎたヴァチカン、絶対王政に向かうフランス王に因って教皇庁がアヴィニョンに移される(1309ー1377)など混乱を極めていた。さらにヴァチカンに戻った教皇庁に対しアヴィニョンにも教皇が起ちシスマ(大分裂)状態に陥った。シスマが解消されるのは1417年なのだ。カトリック聖職者の堕落は凄まじい状態であり、結果的に宗教改革を準備することになった。 その上にペストの大流行である。庶民は路上で何の治療も行われないままに死んでいった。王侯貴族も聖職者も為す術なく死んで逝った。その背景に『ダンス・マカブル』が戯画の様に飾られたのだ。 著者は王侯貴族の石棺を飾った彫像をも丹念に見て行く。彼等が死を受容するスタイルがそこに明らかなのだ。 そもそも「自己の死を恐れたパウロ」に神学の基礎を置くキリスト教信仰は「死を安んじる」ものだ。キリストの再臨によって正しき信者は死から起こされ永遠の世界を享受する。死は仮のものなのだ。 しかし、キリストの再臨はパウロ以降1000年以上訪れていない。その上カトリック教会の拝金主義腐敗堕落は庶民の眼からも明らかだった。十字軍という宗教的ヒステリーが起きるが、いずれにしてもキリスト教に慰撫されて平安の裡に死ぬことが困難な時代だった。 しかも、選択肢はない。 著者のテーマは死生観だと書いている。しかも彼女が追っているのは神が死んでしまった現代人と異なり、神が絶対だった時代の死生観なのだ。上記の様に選択肢がない状態での。 テーマからして、読んでいて決して楽しいエッセイでは無い。しかし、所詮、歴史とは死者たちと対峙することなのだ。美術は死者たちの残像だ。 このことが著者の眼で丁寧に描かれる街の空気と共に美しく列べられている。 知的な教会巡りの旅である。 ▲
by duchampped
| 2015-05-06 02:04
| 逍遙的読書
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